ワクチン接種‐2回目

泳ぐサザエ

今日、午後から2回目の接種に行く。

数日前、当市もコロナウイルス感染の「警戒区域」に指定されたらしい。今日も防災無線で「家庭内でもマスク」をと呼びかけているが、この暑さではそれは無理というものだ。つい先日まで「人混みでないところではマスクを外して熱中症を防ぎましょう」と呼びかけていたし、オリンピックを開催して、テレビでは関係者たちが大声で応援しているさまが報道されている。

そのうえ、「今の状況でも『安心安全』といえるか」とその認識を問われた菅首相は、「高齢者のワクチン接種は進んでいるから、(安心安全は)実行できている」と記者会見でも応えている以上、今さら「家庭内でもマスク」など、聞く耳を持つ人などいるわけがない。実際にもマスクをしていない人がぐっと増えた印象がある。

明後日、8月2日から埼玉県も非常事態宣言下となるわけだが、7月30日からそれまでの3日間はどういう意味をもっているのか理解できる人がいるのだろうか。その間に旅行でもしておけ、と受け取る人がいても不思議ではないちぐはぐぶりである。

梅雨明け

夏の夜‐ベランダ (CG)

関東・甲信地方の梅雨が明けた、と気象庁が発表したのは一昨日の金曜日。とたんに関東各地で猛暑日や真夏日が観測され始めた。暑いのは苦手である、が暑さで体調が悪くなることはめったにない。ビショビショに水をかぶったように流れる大量の汗が、自分でも気持ち悪いだけ。最近はクーラーにもすっかり慣れてきたが、以前は2時間もクーラーの中にいると、むしろそちらの方が体調をこわした。今でも寝るときにクーラーをつけたままにすることはない。

夏の夜、クーラーをつけて青森に向かって高速道路を走っていると、盛岡あたりから急に冷気が水蒸気状になって車内に流れ込んでくる。クーラーの設定温度より外の気温が低くなるからだ。車を駐車場に入れてドアを開けると、都会から詰め込まれ、人工的に冷やされていた車内のそれとは異質の空気が流れている。ああ、本当の空気だと一瞬思う。毎日の暮らしの中で、日々無意識に排気ガスを吸っていることにさえもう慣れっこという不自然さ。「せめて月に一度はこんな空気を吸いに出かけなくちゃ」と思うが、自分がいい空気を吸いに行くということは、そのたびに自分自身が排気ガスをまき散らしながら行くという理不尽でもある。たいていは、月一回という決心を果たせない。

昨日の土曜日でいくつかの区切りがついた。それまでかなり時間も集中力もつぎ込んでいたので、ホッとしたというわけでもないが、今日の日中は何となくボーっとしていた。そろそろ夕方になろうかという頃になって、やっと気持ちが次のことに向かい始めた。こんなだらっとした時間の過ごし方をしているようではだめだと思うけれど、しゃあない。そんなわけで、私自身の梅雨も明けた。明日から(今から、と思わないところがユルい)、明日から。

ワクチン接種してきたが

木立ベゴニアが今年も満開

菅首相は、首相就任にあたっていみじくも「自助」を第一に挙げた。その真意は「自己管理」ではなく「自己責任」であった。要するに「てめえのことはてめえでやれや」という、江戸時代以前の農村的な、社会保障のない時代を前提にした一種の根性主義だろうと誰もがうっすらと、けれど敏感に感じ取った。その後のオリンピックの有観客に固執する彼の姿を見て、誰もがその解釈で間違いではなかったと確信した、はずだった。けれども、ワクチン接種で情勢は彼の思惑通りにコロナ、じゃなかった、コロリと変わった。「無料で接種できて有難い」。無料の意味も解らなくなった高齢者の列に、わたしも加わっていることを感じた一日。

昨日(7月10日)コロナワクチン(1回目)を接種した。接種から1日以上経った現在では、「少し腕が重いかな」程度。2回目の接種予定は7月31日。7月中に接種完了を標榜していた国の計画から計算すれば、高齢者の中では一番最後の日程のはずだ。

接種を待つ間ちらちら眺めていると、少なくとも高齢者のあいだではコロナへの恐怖感はすでに相当薄くなっている、と感じる。ついこの間まで「怖い、怖い」だけだったのが、ワクチン一つでいとも容易く「安心、安心」に変わっていく。二回の接種を終えた人たちが、浮かれるようにあちこち出かけるのを止めることはもうできないだろう。このままいけば、秋の行楽は夏に倍した花盛りになるに違いない。

つい先日までのコロナ対策でのすったもんだや、医療体制の不備とか多くの指摘、提言された事柄などは、あっという間にその「安心、安心」の中に埋もれていく。そして、数年後またそっくり同じことを繰り返すだろう。「反省」のポーズしかしない国、自分や人間について深く考える習慣もなく、そうした教育もしない国では、災害も幸福もすべてが「運」(という名の人まかせ)である。でも、それがいまの日本なのか?わたしたちって本当にその程度の思考レベルなのだろうか。「国民とは、自分がたったいま溺死させられていることさえ解らない人のことだ」、という言葉を思い出す。