ネット社会と「わたしの意味」

GABANのブラックペパーを描く (制作中)

午前中はソーシャルネットワークの中での自分のことを考えていた。つまり、そういう世界の中で自分の生きていく意味を。家族のため、というのはあるが、それ以上の自分の意味というものがあるのかどうか。これまでも何度も考えてきたことだけれど、どう考えても意味が見えてこない。要するに、このネットワーク社会のなかでは、自分の生きる場所がないのだ。

良くも悪くも、わたしは一人でいる方が楽しい。もちろん私は人間嫌いというほどではない。そこそこ誰とでも付き合っていける(だろうと思っている)。けれどその一方で、誰からも相手にされなくても特に孤独に悩むということもないだろうと思う。「人間は一人では生きていけない」とよく言われるが、それなら大勢の中で自分の生きる場所を失い、自殺する人々をどう説明するのだろうか。一人であろうと、他人の中にいようと、そんなことはたぶん本質的なことではないのだ。どこであろうと、死ぬときは死ぬ。その場所が、森の中であろうと病院であろうと、ましてや「自宅」であろうとそんなことはどうでもいい。

祖父は臨終の少し前、しきりに自宅に帰りたがった。周りにいる家族は皆噓をついて、とうとう病院で死なせた。祖母も父も母も病院で死んだ。そのほうが家族にとって「便利だ」という以外に、少なくとも本人にとって何の意味もないことはよく解った。そして、「(自分の)死は自分一人で向き合うべきだ」とも考えた。これからはその方法をしっかり考えておかなくてはならない。

GABANのブラックペパーを描いている。机の上においてもう1ヶ月になる。その間に他のもろもろを描き、ついつい後回しになった。描くのは「銀色」の「反射」。微妙な周囲の色を含んだ「無色」をどう描くか。「ポカリスエット」を描いたとき、意外に簡単だったので、それがマグレなのか確かめたい。こんなものを描いても、それがお金になるとき以外に、誰も関心など持たない。すべての「意味」など、きっとその程度の意味しかないから絵が描けるんだろう。

修行-チョコパイを描く

シャトレーゼのチョコパイを描く

昨日の「チョコレート・パイ」を今日も7時間描き、やっと仕上げた。ほぼまるまる2日間。首に炎症止めのテープを貼った。眼もショボショボ。同じ距離ばかり見ているから、机の前から離れると俄かにはどこにも焦点が合わない。

終わってみると随分無駄なことをしたのが解る。これもCGでは必ず使う「レイヤー」という記録保存機能のおかげ。これを見直すとどこが無駄な作業だったかよく解る。もっと効率よく描けないとダメだ。絵というのは無駄なことをすると色が濁る、とよく言われるがたぶん本当。これはCGで描いているが、頭の中では時々水彩の計算をしたり、油絵の計算をしたりで、制作中ずっと混乱気味だった。CGはモニターで見るのが前提だから、どちらかといえば水彩の計算をする方が良いのだが、なぜか油絵の計算を混ぜていた。

「水彩」の計算というのは「紙の白さを透かす」ということ。つまり、暗い絵の具を先に使って紙の明るさを減じてしまうと、次の発色が悪くなるということ。油絵の場合は「明るい色は暗い色があってこそ」。そのため、明るい色の表現は水彩と油絵では正反対の考え方になる。モニターは色をバックライトの明るさで見るから、先に画面に暗い色を使ってしまうと、上に被せたきれいな色が下の暗さを「吸い込んで」しまう。――油絵ではこういう場合、「透明技法」を使う。きれいに見せたい色の「下」をいったん「白」にするのである。白が乾いたら、その上に望みの色を「透明化して」乗せる・・・なぜか、CGなのにこの技法を使うイメージになっていた。一種の“ボケ”かなと思う。

でも、とりあえず終了できたのは !(^^)! 。描いたあとでよく見たら6枚のパイが入っていて、たしか300円台?で買ったと思う。「彼女」へのクリスマスプレゼントなら「安すぎる~!」。でも、翻って考えてみると、丸二日働けば全国どこでも少なくとも 15000 円になるなかで、この絵の単価「 0 円」。これが「芸術家の(永遠の)修行」でしょうか。

感覚的と論理的

デモ制作を制作中(油彩・F8)

「天才的」と言われる人たちがいる。一般の人には思いつかないような発想と飛び抜けた能力で、若くして人類史的な一つの仕事を成し遂げてしまう人々のこと。学問の世界にはたくさんいるようだが、残念ながらそちらはあまり詳しくないので例を挙げられないが、スポーツならアメリカ大リーグ野球の大谷翔平(以下敬称略)だろうか。発想はともかく、彼のずば抜けた能力とその達成したものを見る限り、天賦の才能、つまり天才と呼んで差し支えないのではないかと思う。

同じ野球でもイチローには「天才的」と呼びにくいものがある、とわたしは感じる。「彼のずば抜けた・・・その達成したもの」を見る限り、彼もまた天才と呼んで差し支えないはずである。なのに、なぜ彼の場合そう呼びのに一瞬ためらうのだろうか。一つは「体格」。大リーグ選手の中ではイチローはかなり小柄である。そして、ホームランより、足で稼ぐような渋いヒット。アッという驚きより、「コツコツとたゆまない努力の積み重ね」の印象が強い。おもにその2つが彼を天才というより努力の人=秀才、というイメージにするのではないだろうか。しかし、本当は彼もまた上記の理由で天才の一人だと言えるはずである。

「天才」になる方法は無いし、それを目指すこともそれ自体矛盾である。しかし、天才も自分一人では天才にはなれない。大谷選手であれば、監督が彼を起用することが第一で、チームがいることが次で、それを喜ぶファンがいることがその次に不可欠だ。そのどれが欠けても彼は天才にはなれないのである。彼自身の天才とそうした環境が合わさって、初めて「天才」が生まれるのである。では「秀才」になら誰でもなれるのだろうか。

スポーツや芸術には「感覚で覚える」という部分がある。天才的と言われるような人たちは、まずその能力がずば抜けている。人が長い時間かかってやっと身につけるような微妙な感覚を極めて短時間に「体得」してしまう。けれど、「天才の悲劇」のモトも実はここにあるらしい。天才の悲劇とは「時代に合わない」、「スランプ」である。この二つは全然違うもののようでいて、実はほぼ同じものであるらしい。スランプとは「頑張っているのに同じことができない」ことだが、その原因は「体得するための方法論(論理的ステップ)がないこと」だということが最近の研究でわかってきたという。
―感覚的に体得できてしまうために、論理化するプロセスが築かれない―それが原因ではないか、という。“不器用な人”は“どうやったら彼(女)のようになれるのか”と研究せざるを得ない。それが「論理化のプロセス」である。これは多くの「天才でない人々」にとってのバイブルとなる。

そのバイブルに従って「天才に近い人」になるだけの努力と才能のある人、それが秀才である、と言ってもいいのかもしれない。「努力」と「才能」。やっぱり、秀才にもそう簡単にはなれないのである。天才を太陽に喩えるなら、秀才は月。どっちも遠いが、とりあえず人類は月には到達したので「あった」。