「絵を楽しむ」って

「クレマチス」水彩

「絵を楽しむ」って、普通に使う(使ってきた)言葉ですが、最近?だんだん難しく感じるようになってきました。つまり「絵」というのが「絵画」ではなくなってきたようなんです。「絵画」の定義が揺らいでいるというか、「楽しむ」の意味がゆらいでいるというか、そんな感じがするんです。

現在、多くの、絵を描く人にとっては、「絵を楽しむ」ことに何の変化もありません。文字通り、描いて楽しみ、観て楽しむ、それを多くの人と共有して楽しむ、それがすべてです。描かない人にとっては、観て楽しむ、その機会を共有して楽しむ、ことでした。

歴史上は、「絵を楽しむ」ことに、版画(出版物)が大きな貢献をしたことが知られています。誰もが知っている「浮世絵版画」。江戸時代では、絵を楽しむと言えば、まずはそのことを指したに違いありません。現物(版木?)を見たいなどという発想すらなかったでしょう。ヨーロッパでも、現物の絵を鑑賞できたのは貴族階級、僧侶、教師くらいのもので、ほとんどの人は教会の中の宗教画や、簡単な版画(摺りもの)だけを見て楽しんでいたはずです。

展覧会場で実際の絵(絵画)を鑑賞することができるようになったのは、比較的近代になってからのことです。鑑賞者は絵を通して作者の意図や感覚を共有、享受。それが「絵を楽しむ」ことの中心的なイメージになりました。
 その「絵」がAIの出現で、変質?しようとしています。これまで「観て楽しむ」だけだった人々が、「言葉」を変換することで「絵を描ける」ようになってきたのです。画材の知識も、もちろんデッサン力など何も要りません。「ピカソ風のブロンドの女」「椅子に座っている」などと、短い文を打ち込むだけでソフトが「絵を描いてくれる」んです。しかも、オリジナル性も保証されます。わたしのような従来型の画家から見れば、「絵を描く楽しみ」すら共有できなくなってきたのです。嫌な時代になってきたなーと感じています。

絵を描くタイミング

撮影準備中
陽あたりの道ー背景の工夫

朝は元気で、さあやるぞ!って感じだったのが、時間とともに沈んできた。特に痛いところとか、あるわけじゃないが、生きていると、誰でも様々なクソ用事が出来てくる。それが重たくなってくる。「人生にストライキ」なんてできたらいいなーとか。もう、ストライキなんて言葉も死語化するほど、世の中ツルツルになっちゃってて。

絵を描いて、疲れたーって感じたことがあまりない。動かないで、あれこれ悩んでいる方が何倍も疲れる。適当にウォーキングするほうが、休んでいる時より元気になる。脳の疲れには肉体労働が効く、とはよく聞くが、実際そう思う。

そういうわけで、(ごく)最近は疲れたら「絵を描く」。もちろん、疲れすぎていちゃダメだけどね。

画家という「ひとびと」

今日17:30頃、アップロードしました。見てね~
「Green-apple」 テンペラ F4

忙しい。といって、仕事をしているわけではない。「遊びに忙しい」?ってほど、優雅なはずなどないが、ゼニにならない時間を遣ってるということは、(世間的には)「遊んでる」っていうんだろうね。自分的には納得しないが、そう見る人はたくさんいるんだろうなっ、てのは感じている。

「Green-apple」。スキャン画像がこれだけど、600 (pix/inch) でスキャンしたのに、このピントの甘さはなに?まるで、眠ってるようじゃないか!なんてイラついてしまったが、冷静に考えると、いろいろ原因があるようです(絵の方はもちろん、ずっとシャープですよ!)。

先日、わたしより10歳以上若い、ある人気画家と話をした。「(美術)大学で理論とか技術とかいろいろ勉強したけど、結局、子どもの時にやってたことを大人になってもやってるだけってことなんですよね」「子どものときには解らなかった、絵を描くことの意味とか、知らなかった技法、技術。当時は使えなかった素材などを使って、あの頃の延長をやってるだけなんですよね」。そう、そう。そうなんだよね。

(世間的には)馬鹿というんだろうか?“純真”って言うんだろうか?どちらにしても、本人的には「どっちでもいいし、どっちでもなくてもいい」。やりたいことができさえすればいいし、できているなら続ければいい。続ける気がなくなるか、続けられなくなったら、それで終わり。それ以上あれこれ先回りして考ると、結局やれないことになってしまう、それが世の中というものかも。やれることを、やれるときにやる以外になかった人々、なんだろうね。