ウクライナ戦争

「芍薬」 水彩

YouTubeなどを見ると、ウクライナ戦争に関するチャンネルがたくさんあって、どれもそれなりに視聴されているようです。発展途上国内の部族紛争絡みの内戦と違って、れっきとした先進国同士の、しかもどこかの小さな島を巡る争いのようなものではなく、一国の存亡をかけた総力戦ですから関心が高いのは当然ですが、こと日本に関する限り、誤解を恐れずに言えば、多くの人にとって、本物のエンターテイメントでもあるからでしょう。

死に物狂いの争いでも、無関係の第三者が安全な場所から見る限り、それは一種の娯楽になり得ます。古代ローマのコロッセオで、囚人とライオンとの一騎打ちを見物する観衆のように、あるいはハイエナに襲われる瀕死のシマウマを、サファリカーからスマートフォンで写真を撮る観光客の例を出すまでもなく。

けれど、すでに多くの人が指摘しているように、ウクライナ戦争は決して高みの見物ができるようなものではなく、日本とも無関係ではないと、わたしも思います。もし、ウクライナが負けたなら、それはほぼロシア一国を相手に、アメリカ、Nato、日本などの連合軍が負けるに等しいことになるでしょう。国連でも、もうアメリカの云うことをまともに聞く国は無くなるでしょうし、ロシア寄りのドイツ、フランスとその他にNatoは分裂ですし、台湾に中国が侵攻しても、もう誰にも止めることはできなくなります。いずれはロシアと中国も争うでしょうが、当面は世界の二大リーダーということになるでしょう。

悲観論とは思いません。ごく論理的な帰結です。東京から南は中国領、北はロシア領となる可能性だってゼロではない。それがウクライナ戦争の、日本における意味だと思います。日本を含め、欧米は確かにウクライナに大きな援助をしています。けれど、対岸の火事感、一種の観衆感を拭い去ることができません。ウクライナは負けそうです。援助も遅すぎ、少な過ぎ、制約あり過ぎで非効率、と言われています。このツケは、そう遠くないうちに自分たちで支払うことになるでしょう。今は、そうならないことを祈るしかできませんが。この記事は、ウクライナ戦争に対する、現時点での自分自身の記録として書きました。

「絵」と「絵に似たもの」

「つぼみ-ジャーマンアイリス」 水彩、ペンなど

これは結局「絵画とは何か」という問題に帰着します。「絵に似たもの」=「絵ではない」ということは、絵とは何かという問いの裏返しだからです。

本題は絵のことですが、例を挙げるには彫刻の方がし易いので、そうさせていただきます。彫刻=立体=彫刻、ではありませんよね?自動車は立体ですが、誰も彫刻とは呼びません。ショーウインドーのハンドバッグも精巧で美しいものですが、やはり彫刻とは呼びません。けれど、この形を彫刻家がブロンズで作れば彫刻と呼ぶでしょう。同じように、ハンドバッグも彫刻家が作れば彫刻です。メタルとか革とかの素材の問題ではないんです。では、彫刻家が作ればなんでも彫刻なんですか?答えはイエス、です。

現代絵画のトップの一人、ゲルハルト・リヒター(独)は「(わたしにとって)眼に見えるものはすべて絵画だ」と言っています。ならば「絵に似たもの」などと云わずに、すべて絵だと言えばいいじゃないか、と思いますよね。要は、絵だとか絵に似たものとかの区別に意味はない、と言っているわけですが、それはリヒターだから。彼ほど、絵(画)とそうでないものの違いを追及している人は少ないのです。わたしのような一般、凡人にはもっと考えることが必要です。

砂に描いた絵もわたしは絵画と認めます。ペンライトで空中に描いた絵も認めます。彫刻家が作れば、アンパンも彫刻であるように、画家が描くから絵画なんです。学校の先生が描いても絵画にはなりません。その先生が「画家」になって、初めて「絵画」になるんです。この場合の「画家」は職業欄のことではなく、その人個人の、マインドとしての「画家」です。芸術家にならなければ、芸術作品を創ることはできない、とわたしはそう感じています。

「絵を楽しむ」って-2

「オオカメノキ」水彩 F6

現代では、簡単な文をいくつか綴るだけで、ソフトが “original” の絵を描いてくれます。売ろうと思えば、それを売ることもできます。それを売るためのプラットフォームにも事欠きません。欲しい人、それを見るだけの人とも、少なくとも外形上は、これまでの油絵や水彩画と同じように、いや、もっと簡単に「楽しみ」を共有することができます。

「観る楽しみ」という点で言えば、浮世絵版画を買い、ふすまや屏風に貼り付けて楽しんだ江戸の人々、美術館前に長い列を作って、一目名画を見ようとチケットを握りしめる人々も、ベッドに寝そべりながら多くの人とチャットでAIで描いた絵を共有する人々も、それぞれ自分に合った(選択肢があろうとなかろうと)やり方で「楽しむ」、ということに変わりはないのかも知れません。

AIで描く絵は「統計」を基に生み出されるものであることが、理論上はっきりしています。筆で描く絵は「感覚」を基にしています。基にするものが、一見、水と油のように異なったものに見えますが、感覚は経験とも結びつき、経験は(ゆる~く)統計とも関わっていそうでもあります。統計上の一つ一つの画像データの中にも、個人的感覚や経験が反映されているでしょうから、わたしが感じている以上に、実際は近いものなのかも知れません。AIが極めて短期間に、簡単に社会に受け入れられ始めているのも、そういうことなのでしょうか。

けれど、少なくともわたしは、「描く楽しみ」を AI と共有できません。理由をよくよく考えてみると、AIには「(生みの)苦しみがない」からかも、と思い当たりました。「楽しみ」を共有する話をしているのに、「苦しみ」の共有を持ち出すのは矛盾かも知れませんが、それは「描く楽しみ」の不可分のパートとして、確かにそこにあるのです。見るだけの人にも、作者の苦しみを想像できるような、何らかの経験を持っている。だからこそ、より深い共感が生まれていた、そんな気がします。