アリッターシター

「夕焼け」のための習作

昨日ガソリンスタンドで車に給油、プリペイドカードで支払った。店員がこちらに領収書を見せながら「あと○○円残っています」と言っている(らしい)が、全然聞き取れない。

想像するに、○○ℓ入りました。リッター〇円引きなので、○○円になります。カードにはあと○○円残っています、と言っている。金額だけは辛うじて聞き取れたような気がする(領収書を見ているから)。

店員は若い、童顔の(20代?)日本人(の男の子?)。最後にきっちり営業用のスマイルで「アリッターシタ―」。「ありがとうございました」と言ってる気がするらしい。プリペイドカードは「プリカ」、トレーディングカードは「トレカ」、クレジットカードは「クレカ」やスマートフォンの「スマホ」は日本人にはもう日常語化しているが、日本観光中の多くの外国人にはまだ解からないと思う。「めっちゃ」「ヤバい」は、観光で来る外国人には、むしろこちらが普通の日本語だと思われているようだ。

現代日本語は、日本人であるわたしにも「ムズイ(難しい)」。これを漢字で書くと、若い人は「ナンシー?」と訊く。教育漢字というものはすでに廃止になっているのだろうか。薔薇、林檎、躑躅など「日本人なのになんで漢字(中国語の意味?)で書くの?」ひらがな、もしくはカタカナで書けってことか。ところで皆さん、さっきの3つの漢字、読めるでしょうか?確かに、もう、バラ、リンゴ、ツツジとしか書かれていないことも多いもんね。外国人もひらがな、カタカナなら読めるらしいから。

晨春会’24展 はじまる

開場直前の様子

晨春会展が昨日から始まりました。23日(日)まで。良い会場になりました。期間が短いので、どうぞお見逃しなく。昨日はあいにくの雨でしたが、開場前から何人もの方がついでに見に来て(失礼)下さいました。ありがとうございます。

午後からは雨にも負けず、大勢の人が見に来てくれました。来場者の方々とゆっくりお話しができたので良かったです。

空虚なすき間

「グライダー(未完)」 水彩

空虚なすき間が嫌だ。難しい話ではなく、単純にプラスチックゴミの隙間のこと。

たとえばわたしが毎日食べるヨーグルトの容器。だいたい400cc入りのが多いが、一度に200ccずつ食べるので、2日に1個容器がゴミになる。紙の容器なら潰してしまえるが、中には硬い、しっかりした容器がある。この頑丈さが何かに転用できるならいいのだが、捨てるとなると、その内側の空間が嫌だ、という馬鹿馬鹿しいような話です。

そこに何か別の捨てるものを詰めこまなくては気が済まない。ぽっかり空いた空間が許しがたいのである。揚げ物のパック、豆腐や納豆のパック、お寿司などの惣菜用パック、どれもこれも許し難い隙間を見せつけてくる。なので、ハサミを入れ、ペッタンコにすると、やっと気持が納まる。けれど、家族がむしろそのことを嫌がるのである。
 家族はプラスチックごみの日、まるまると膨らんだ大きな袋を出すことを気にしない。わたしはペッタンコの小さなゴミにしたい。けれど、わたしも忙しいときはほったらかしで、徹底しているわけではないから喧嘩まではしない。

同じように、ペンケースでも、リュックでもわたしは隙間に詰め込まなくては、なんとなく気が済まないところがある。そうすると、「空虚なすき間を無くす」ことはできるけれど、全体を小さくしたいという本来の欲求と矛盾してしまう。ペッタンコのリュックを背負うのがなんだか心もとない気がするのがその理由である。そんな矛盾した感覚は、生活や文章などにも反映しているかもしれない。ダラダラした、中身の薄い情報、文章は嫌だ(といって、中身の濃い情報や文章ができると言っているわけではない)。
 一方で、絵画や彫刻、建築などの芸術空間はもちろん、生活空間にモノを詰め込むことには苦痛を感じるのだから、わたしの頭の中はずいぶんと自分勝手だとも思う。でも、たぶんわたしは特殊ではない。どころかおそらく、きっとそういう人の方が多いのではないか、とさえ考えている。赤信号みんなで渡れば怖くない、と安心しているけれど。