爽やかな人、爽やかな絵

アンスリウムなど f6 watercolor 2011

 埼玉県展の審査結果が出品者の手元に届き始め、結果に一喜一憂する人もいると思う。

ユニークな絵を描く人がいる。「今年も落ちちゃいましたー。また、来年頑張りまーす」と笑っている。しかし決して来年の入選を目指して頑張るとも思えない。要するに、絵はその人の人生のほんのわずかな部分に過ぎず、血眼になってまでやるほどのことではないのだろう。が、決していい加減に描くわけではなく、それなりに真剣らしい。彼にとって絵は、大切な人生の一部分であることも間違いない。

その人の絵は実を言うと少し困った絵なのだが、その困り方が痛快で気持ちいい。一言でいえばスケールが大きすぎて「きわめて絵にしづらい」。大きいといっても対象は実に具体的で、目に見えるものなのだが、リアルに描くと全然つまらない。半分抽象化するともっとつまらない。絵では無理なのかも?とも思うが、チャレンジし続けている。けれど私のように直線的ではなく、その無理さ加減を楽しんでいるようにも見える。

けっして上手い人ではない(しかし最近だいぶ腕を上げてきた)が、どんな絵を描いても楽しい気分がとてもよく伝わってくる。それが実に爽快だ。彼のような絵との距離感は私には経験がない。こんな楽しみ方ってあるんだなあ、と羨ましくも見える。

気持ちが伝わるくらいだから、実力は十分ありそうだ。だが「困った絵」を絵にすることは未だに出来ず、したがって?結果も出ない。それが楽しそうでもあるし、さらに絵を描く原動力でもあるに違いない。困った絵は、まだ数年は爽やかに彼と私を悩ませてくれるだろう。

上の水彩画は、内容とは何の関係もありません。単なる気分です。

シェルターの男-2

シェルターの男 f6 Mixed-medium

今年の晨春会展に出品予定の「シェルターの男」はあまり描かかないうちに制作終了間近。写真締め切りの電話を貰って、考えた。

上の作品は昨年制作の、「シェルターの男」の第1作。何気なくデッサンしていてピンと来るものがあったのを覚えている。それ以後10点は「シェルター・・」を描いた。シェルターの形もごく最近ではカプセルのように変化してきた。「カプセル」といえば福島原発や放射能といった大震災のキーワードを連想させそうだが、制作開始は昨年末で、大震災の4カ月以上も前のこと。震災には直接関係ない。

「シェルター」とは何かから、何かを守るための設備だから、この場合も、この男?は何かから自分を守ろうとしているに違いない。でも「何から」?題名の「男」も、本当に男であるかどうか実際はよく判らない。

制作は五里霧中中。道に迷う人に特有の幻灯かも知れないが、霧の向こうに「何か」があるはず、と・・・。

ハッチングは癒しの効果?

Capsule-2 (part) f4 Mixed-medium

1か月くらい前から、やたらにハッチングを多用している。ハッチングとは面相筆のような細筆で、細かく線で描き込んでいくテクニックのこと。薄い絵の具を何度も重ねて一本の細い線を描く。つまり一本の線の下には数本、または十数本の線が積み重ねられていることになる。

ハッチングは、油絵技法が完成する前の、テンペラ画に主に使われていた古典技法のひとつだが、現代では描写的、説明的との理由でほとんど使われなくなっている。私自身もここ数年は半ば封印状態だった。なのになぜ今になってそれを多用するのかといえば、頭よりも目と手だけ、時間と手間だけが膨大に必要な単純作業によって癒されるからだ。

震災の衝撃から1か月後、私自身にもひとつの問題が起きた。表面だけ見れば、私自身の判断ミスによる小さな問題のようだったが、その根は深く、私にとってはこれまでにない深刻なものになった。

精神的なショックで絵が全く描けなくなってしまった。人の噂や人の口。他人だけでなく自分をも信じられなくなり、これまでやってきたことがすべて無意味だったのではないかと強く感じた。新たな作品に気持ちを向けようとしても、そのことが頭から離れない。同時に、絵の方から厳しいしっぺ返しを受けたのだとも私は感じた。「生活のために絵画講座や絵画教室などを開き、いつの間にか最優先すべき絵のことをおろそかにしてしまった。これは絵が私に下した罰なのではないか」。

余計なことを考えずに細い線にひたすら没頭できるハッチングが癒しになっている。