いつものような日曜日

編集中の一コマ

今日は一日中「曼珠沙華の風景」のビデオ編集をしていた。眼もショボショボになるが、1時間以上坐っているとお尻が痛くなる。お尻の筋肉も脂肪も小さくなり、萎んだ体積に体重がそのまま乗っかるから。おまけにビデオ撮影の機材の把手を回すのがきつくて、右手を痛めてしまった。消炎テープを貼りつづけたおかげで痛みはだいぶ引いたが、親指を広げたり、マウスを掴む動作をすると痛む。

階段の縁に足をぶつけ、見る間に小指が腫れあがったが、それもほとんど引いた。たぶん、もともと頑丈な身体なんだろうと思う。それを壊すのは自分自身の不摂生と不注意。それに多少の?ボケ。

今日は数日ぶりの快晴。一歩も外へ出なかったが、外へ出た人の話を聞くと日なたではかなり暑かったらしい。夜はぐっと気温が下がって秋らしくなってきた。

曼珠沙華の風景

「曼珠沙華の風景」  ペン、水彩

「曼珠沙華の風景」の制作をビデオ撮影した。1~2週間後には YouTube にアップロードする予定。前回のアップからすでに2週間経っているので、今回は1ヶ月かかることになりそうだ。自分でもがっかりするが、仕方ない。やらないよりはましだ、と思うしかない。

先日と、この2つのエスキースを使って制作、撮影した。撮影の考え方を、ほんの少し進めることができた。一歩ではなく、足一個分だけ進歩。それでも毎回数時間、編集の負担が減るはずだから一足分とはいえ、小さくはない。それにしても、余計なことに気を取られ、無駄な時間を過ごし過ぎている。

彼岸花の周辺

         「彼岸花」  ペン、水彩

先日のブログに上げた、「曼珠沙華=彼岸花」を描いてみます。花そのものは凄かったので、それを描くためののエスキースです。

一つ一つの花を描いても「彼岸花」にはなりません。その前に個別の植物学的分類というものがあって(それ自体も「揺れ動く」のですが)、「彼岸」という仏教用語に繋がる、歴史的環境的意味関係をいったんは断ち切ります。それを踏まえたうえで、秋の彼岸の時期にまとまって咲くこの花の、全体としての存在が「彼岸花」だというのなら、まとまった花の「情景」こそ「彼岸花」ではないか、なんて理屈を捏ねてみた試作です。

彼岸花を一個ずつ描いてもしょうがない(というより、意味がない)。かと言って赤のベタ塗りだけで判ってください(記号)ってのも、ある意味傲慢でしょうか。ペンで花の下描きをクルクルしてみたら、あの飾り花のクルクル感を「感じて貰えるかな~」なんて120%希望的観測の初回エスキース。甘すぎるのは解ってますが、でも他にどうやったらいいんでしょうね?

チューリップ畑ですか?といわれても返答ができません。コスモス?といわれたら、ちょっと違うかもーなんて言えるけど。花の「かたち」ではなく「花の情景」ですから、個々人の感覚に異を唱えることはできません。というわけで今回の弁解と致します。