絵画指向

補色を使う

今日のデモ制作です。油絵クラスなどでは「補色」を並置することはごく普通の技術ですが、水彩で、特に顔などを描くときは感覚的に躊躇しがちです。補色とは、混ぜ合わせるとグレーになる、という色の組み合わせだからです。

色の滲みを多用する水彩画では、「並置」のつもりが「滲み」で混ざってしまい、グレー化する可能性がとても大きい。そこが、色をきれいに出したい水彩では用心せざるを得ないわけですね。

ごく普通の、水彩による写生的感覚では、人間の顔にこんなふうに「緑色」を使うことはほとんどないでしょう。日本人の顔なら、バーミリオン、クリムソンレーキ、マゼンタ、イエローオーなどの暖色系、陰の色としてセルリアンブルー、コバルトブルーくらいを使い回すはずです。
 混ぜるとグレーになる一方で、補色とは「お互いの色を引き立て合う関係」という意味も持っています。緑を並置することで、単独の赤より存在感のある赤み、血の色、血色のいい顔色を期待することもできるわけです。両面があるんですね。

でも、実はそれとは別に「絵画的」という効果がある、と今日のデモ制作で再認識しました。これをもっと洗練して全員が使えるようになったらいいな、と感じました。「写生的」に対しての「絵画的」指向です。この考え方、感じ方はもちろん顔だけに限られているわけではありません。使い方を工夫して、ワンランク上の作品作りに役立ててもらおうと考えています。

アート、アーティストってなんだろね?

        第77回二紀展:松本邦夫「響く景」 (国立新美術館、東京)

昨日あさイチでYouTubeをアップロードしたあと、乃木坂の国立新美術館へ二紀展、独立展を観に行ってきた。

どちらの展覧会にも知り合いが何人もいる。彼らが元気で出品しているのを見るのが一番の目的。内容なんかどうでもいい、とにかく元気でバカデカい作品を出していてくれればそれでいい。その上で、バカなことをやってくれればバンザイでもしたいところだが、皆さん、さすがと言うべきか、なかなか上手にまとめてソツなくごまかしてやがる。でもま、それはそれでいい。でも会場の黒リボンだけは、寂しくてやりきれない。

メディアがいう「アート」と、わたしたちアーティスト(自分のことをアーティストに含めていいのかな?)との感覚は全然違う。メディアだと、なんだか非常人的な「独創的」発想で、人目に触れないところでの努力の結晶、的にまとめてしまいがちだ。だから普通の人との薄い接点がますます薄くなる。
 それはたしかに見当違いではないし、放送という時間の制約がある中ではある程度やむを得ないところがあるとは思う。とはいえ、現実のアートはもっともっと身近で、多様で、時には楽しく、時には厳しい。

アーティストにとって、一番大事なのはアートであって、命はイコールもしくはその次、ということは確かだ。アートは、普段の生活や他のすべてのことに多大な「コスト」を伴う「生き方」そのものです。それを受け入れるには、才能などよりむしろ一種の覚悟が要る。ほんの束の間の解放と、ほとんどの時間を消費し続ける覚悟だ。そこが共有できているから、アーティストは互いにライバルであると同時に、貴重な、貴重な仲間なんです。
 そのくせ、ではアートってなんですか?と問われると、たいていすぐ答えられない(笑)。メディアにとっては、「言語化」が必須の手段だからそう訊くのだが、アーティストにとっては言語化が主体ではないからね。無言あるいは意味を為さない “から騒ぎ” も、「作品」そのもの、「体現」そのものを見よ、と言ってるだけのこと。言語化しか伝達方法がないと思いこんでいるような人々には、そこが通じにくい。でも、その思い込みさえ外れれば、アートなど、すぐ目の前にあるごく普通のこと。だって、ごく普通の人(「普通」という意味が曖昧だけど)がやってることなんだからね。
 アーティストがやることすべてが「アート」なんです!その単純な意味が、どうしてもメディアを通すと、歪められ、時にはまったく伝わらない。実物、本人の前に自分自身が向かい合えば、すぐにアートとの会話が始まるんだけどね。

数字がすべて、ではない

今宵は十三夜の月が眩しい(18時ころ)

今日は衆議院選挙の告示(公示)日。どの政党も「経済の立て直し」「失われた30年を取り戻す(経済)」「安全保障」「政治の信頼回復」が共通ワードだ。

日本のGDPがインドに抜かれ、第5位(すでにドイツに抜かれている)に転落しそうだ、それをV字回復させると候補者たちが力説する。この30年間ほとんど給料が上がらなかったのは先進国のなかで日本だけ、との声も大きい。

でもこの30年間は、本当に「失われた」のだろうか?30年前の日本はすでに世界最先端の新幹線を定時、正確、安全に運行できていたが、その安全性、快適性はさらに向上した。30年前の公園や公共施設の、たとえばトイレなどの生活環境、バリアフリーなどの細かい配慮と浸透、道の駅だのスーパーなどへの利便性など、どれほど快適になったか、世界は今こそ日本を羨ましがっているのではないか?
 「働き方改革」も、かつて「エコノミック・アニマル」と揶揄され、「ザンギョウ(残業)」や「karousi(過労死)」を国際語にした、「数字がすべて」のモーレツ社員たちの時代から、日本の会社員の一週間の労働時間はすでにアメリカより少なくなった。「出世しなくていい、自分らしい生き方」で働きはじめた現代の若者たちが、世界の同世代たちのモデルになりつつあるのではないか?そんな平和でバランスの取れた国になるために、「30年」は必要な時間だったのではないか?
 世界の歴史を概観すると、一つの国が成長成熟するのに30年など決して長くはないどころか、奇跡的に短いとさえ思える。この選挙キャンペーンは、これからも若者たちを(奴隷のように)「コキ使いたい」、経済界の薄汚いインボウなのではないか?とさえ思える。

開発・発展(途上)という「単語」は勇ましいし、そこにはインフラ投資が不可欠だからGDPも右肩上がりで「政治的には」格好いい。だが「インフラ投資」というのは聞こえはいいが、要するに「国の財政的賭け」とほぼ同義語であり、賭けに負ければ廃墟が林立することになる(中国のやり方を見れば判る)。すでに30年前の日本のインフラは世界標準から見てもかなりの程度に整備されており、それ以後は新たな開発・発展というより、それを全国的に敷衍、向上、洗練させることがむしろ課題になっていた。その間に日本の文化に対する世界の評価も高まっている。確かに今も色々問題はあるが、それらを維持向上する発想や、それを連携するシステム、それにかかる時間的なコストを無視したうえで、GDPだの、物価の安定を無視した給与比較の数字だけで判断するのは大きな間違いだ、とは経済の素人でも分かることではないか。
 決して「失われて」などいない、とわたしは思う。勇ましい「V字回復」など、むしろ国民をかつての「社畜」状態に戻そうという経済界の、目先の利益に迎合する言葉だとさえ感じる。「政治不信」。メディアはなぜ、それを「政治『家』に対する不信」と正しく伝えることができないのか、と情けなくも思う。(長くなって、ごめんなさい)