ストレス中毒

今朝、上の動画を公開しました。一昨日のブログに載せたものの制作過程です。紙の白を除く3つの明暗の使いかたを提案したものですが、最も重要なのは手前人物と紙の白さ。それぞれの意味を中間の明度が示します。

今回はとても急いで編集しました。いろいろ雑事?や身体的なことも含む様々なトラブルも重なって、土日は早朝から深夜まで必死の?編集作業。寝るころには画面の文字が、顔をモニターにくっつけないと見えないほど目がショボショボ。そんなだから、エラーもするし、それが引き金になってパソコンも混乱する。かえって時間かかる、の悪循環。

今朝は数日ぶりに落ち着いて起きられた。良かった~(睡眠時間は少ないけど、ストレスが減ったぶん)。起床後の(ちょびっと)筋トレもできたし、夕方にはウオーキングもしようかな、なんて前向きに考えられる。ストレスが身体を蝕むのを直に感じますが、反面それがないと生きている感じがしないかもしれません。ストレス中毒ですね。いかん、次の用事が待っている。じゃあねー。

「カフェテリアにて」

「カフェテリアにて」 水彩スケッチ(YouTube用に制作)

YouTube用に水彩スケッチを制作する。それはそのまま作品になることもあれば、苦い失敗の修練になることもある。ただ、どれも「自分でなければできない」というオリジナリティはない。その意味ではどれも単なる制作、ということになるのかもしれない。

同じように描いても出来不出来というのがある。ケーキ屋さんとかラーメン屋さんが、一個ごと、お客さんごとに出来不出来、味の違いがあっては商売が成り立たない。100個作っても、500個作っても、見た目も味も見分けがつかないようでなければならない。それが職人というもの。

絵画などは逆に100枚描いてもどれも同じモチーフ、構図、テイストも同じでは問題だろう(もしそういうことができたら、それはそれで凄いとは思うが)。1点1点違うことが前提ではあるが、それが「出来不出来」の違いであるなら問題だ。職人的な修練、100個同じレベルのものを作る能力は、必要かも知れない。いや、むしろ逆なんだろうか。

カプセルとしての Apple

制作中

Apple(シリーズ?)を展開した作品を現在制作中です。昨年と一昨年はAppleにまつわる、一種のノスタルジーをテーマにしたものでしたが、今回は「カプセルとしてのApple」をテーマにしてみようと思っています。

いま思い出してみると、学生時代に「囚われ」というP100号(※サイズの前のP,F,Mはキャンバスのかたちを示し、数字は規格のサイズを表しています。Pはやや細長い四角形です)の作品が、中に何かを閉じ込めた(閉じ込められた)、つまりカプセルを意識して描いた最初の大きな作品だったように思います。

学生時代は多くの人にとって、先の見えない不安と、自分だけではどうにもならない圧迫(閉じ込められ)感を感じやすい時期です。。たぶん今の学生さんでもそうでしょう(卒業して社会に出ると、慣れてくるというか麻痺してくる、鈍感になるのですが)。そういう意味では、ごく一般的なテーマだったとも言えます(もちろん表現は個々それぞれです)。
 その後もズバリ「カプセル」という題名で何枚も描いているし、それをテーマにした作品もたくさん発表してきました。「シェルターの男」という連作もあります。シェルターですから何かから「護る」のですが、これもひとつのカプセルと考えていいと思います。
 だから、ずっと継続しているテーマであるとも言えますよね。「閉じ込められる=閉塞感」と聞けばマイナスイメージですが、たとえば「種(たね)」という題名の絵も何枚か発表しています。それなどは、そこから発芽、成長するというプラスイメージを与えるでしょう。

この絵はこれから先どうなっていくでしょうか。同時に2点進行していますが、ここに掲げないもう一点は、いちおうプラスイメージになる予定です。この絵はどうなるでしょうか。勝手に想像してみてください。