冬が来れば思い出す

オジロワシ舞う

「夏が来れば思い出す」ではないが、冬が来れば思い出すことも少なくない。

雪上に点々と続く動物や鳥の足跡。空から激突するようにドスンと体をぶつけて着地する雉(キジ)の丸い胴体のあと。ドタドタした駆け足(滑走)、飛び立ちの瞬間、やっと浮いた体重の下を微かに羽根の先が雪を掻いた痕跡。

立ち止まり、何か考えるように小さく回り、また歩き出す一本の点線。脚を踏み出すたびに、深い雪をほんの少し引っかける。それが転がって微かな線を残す。柔らかな窪みは、そこで狐が束の間の休息を得たことを示している。小さな動物が雪に半分埋まりながら、うねるように歩く。それらのイメージを、半分は動物になって追体験してみるのが冬の愉しみの一つ。葉を落とした灌木の茂みの中に、野生の梨が鳥たちに見つからず残っていたりする。それは天からのご馳走だ。

下北風景 / Landscape

下北風景 パステル、クレパス

久しぶりに風景画を描いてみようかと、スケッチブックに子どもが使った残りのクレパスなどで、イメージを描いてみた。

母を見舞った病院から1.5kmほどの、道沿いにある民家。車の出入りする轍の跡がなければ人が住んでいるようには見えない。晴天の雪景色だったが、そのままではまるで観光写真に見えるので、月夜を思わせる、青い風景にしてみようかと、2〜3枚スケッチした。

絵の半分は見る人が描くものだ、という考えが近年強くなってきた。文化とか環境とか生命という大きな次元の中で、「個」ということの意味が私にとっては随分変わってきた。始めに個ありきではなく、どう生まれ、どうやって輝くのか、少し考えるようになってきた。

 

葉牡丹 / Flowering cabbage

葉牡丹

今朝も快晴だ。気分だけは(いろいろ思い出さないかぎり)よい。こんな時は、気持ちのよい音楽を聴き、嫌なニュースには耳を塞ぎ、静かに詩でも読むのがいい。のだが、現実はなかなかそうならない。

葉牡丹。昨年まで、全く興味がなかった。今もまあそうなのだが、園芸店を覗いているうちに何故か、これを描いてみようと、小さな鉢をひとつ暮れに買った。

大小20枚くらい描いた。そのうちにだんだん葉牡丹を描いている気がしなくなって、自分がそこに投影されてくる。これはひょっとして俺なのかも…。ところどころ引っかかるようにギザギザで、点々で、非常識な色が前後の脈絡もなく在る。このいい加減な有りようはまさに俺だが、それはもう葉牡丹を描いているとは言えないのかも知れない。