ビジョン

「Apple」習作

絵画とは「ビジョン」だけで完結するものかも知れない。ビジョンとは、「見えること、もの」をいう。それを「画面に定着」することは必ずしも必要でない。そういう意味ならすでに映画やビデオがある、というより、もっとラジカルに、仮に言葉で聞き手の脳に像を描かせることさえできれば、それを絵画と呼んでいいのではないか、という意味で。

あるいはビジョンのリアリティと、言っていいかとも。むしろ絵画にとってはこの方がずっと重要で、「見る人にとって」リアリティの無いものは絵画ではない、と言ったらどうだろうか。当然リアリティとは何か、ということになるが、それは「見る人」次第ということになる。作者はどこへ行ってしまうのか?それでは不特定多数に対して発表する絵など描けないではないか。いや、作者は作者で、見る人のことなど考えずに、自分のリアリティだけ追求すればいいのだ。作者と見る人の関係が断絶していることにおいて、初めて本当の関係が成り立つのかも知れない…などとぼつぼつ。

プルプル

筑波山頂夜の雲

ふと、さすってみるとプルプル。揺すってみると波が伝わる。自分の腹のことである。

体重計は正直に白状した。最近疲れる、と思っていたが、疲れる理由はそこにあった(のかも)。私も人並に、毎日現実に直面させられているが、コレは他人のせいにできない。忙しい→だから疲れる→体重が減る。というはずが、+2kgとはどういう意味だ!

見ないふりをしても、食べた請求書はきちんと目の前にくる。この請求書は高利子が付き、踏み倒すのは危険である。「嫌だなあ」と声に出し、頭の中で「どうすっぺ?」とどこかの方言で考える。実は心当たりがあるから対策は考えてある。それ以外に選択肢は無いのに、グズグズしているのが相撲でいう「時間前」。仕切り直し儀式のあとは、立会いしかない。でも「プルプル」じゃあ…。

先日「ポポ」という珍しい果物を頂いた。「北国マンゴー」といえば近いか?家族は「へえーっ」と一口だけ。好きとも言えないが、不味くもない。モロヘイヤも家族は「へえーっ」。好きとも言えないが、不味くもない。「へえーっ」、好きとも言えないが、不味くもない。それが、プルプルの意味なのかは、「詠み人知らず」。

絵の行く末

東通村・白糠にてー気温18°、強風

8/27(月)〜8/30(木)まで、八月2回目の下北行き。今回は自分の車で運べない、大型の絵だけを下北へ置いてくるため。車いっぱい詰め込んだが、残りが少なくなったような気がしない。

下北は初めてだというから、運転してくれる人に少し観光案内をした。尻屋崎〜恐山など一般コースを一日で済ませ、翌日は漁船を描きたいというので、いくつかの漁港廻り。私もついでに、小さなスケッチブックに20枚ほど描いた。

ペンを走らせている時は無心だが、次の場所を探して歩いていると、何故だか無性に侘しい気持に沈みこむ。天候のせいもあったかも。けれど、色々な意味で「終わり」を感じていたからのようだった。自分自身をも含め、文字通り色々な意味での「終わり」。運び込んだ絵も、恐らくもう二度と誰も見ることはあるまい。残りの絵も近々運ばなくてはならないが、それよりは直接こちらの焼却場に運んだ方が良いかなとも考えた。帰りは700kmあまりを車で9時間と早かった。運転しないのにとても疲れた。