自然貧乏

「Appleのある静物・習作」(部分) 2019/8/25

今年の下北滞在はつい「頑張ってしまった」。28日に帰ると仮定して、たったの20日間、例年のごとく、頑張って仕事してしまった。作品の写真締め切りが近いせいもあるが、つくづく貧乏人根性が染み付いているんだなあと思う。

実はテントを持ってきていた(なのに、テントを張るようなところに1日も出かけなかった)。山にでも海辺にでもテントを張って終日ゴロゴロ寝転んでいればいいし、晴れたら海でも川でも釣りにでも行けば良かったじゃないか、と今頃になって釣り道具を用意する「気持ちもなかった」ことを残念に思う。

川は水が流れているだけではない(それは川ではなく、単なる水路のことだ)。昨日、黄貂の話をしたが、自然の川とはそれらの動物やその餌となる植物やら何やらと一体になっている、「環境」そのもののことだ。自然のそばにいて「環境」に関わらない時間というものを持っていいものだろうか。それが「雪の中であの美しい黄色をもう一度見たい」などと口走る自分の在りようなのだろうか。

「あ〜あ」。幾つになっても幼い我が精神よ(幼稚だと言っているだけですよ。「若い」という意味はありません)。「豊かさとはなにか」。考えるヒントはゴロゴロしているのに、ゴロゴロしない人には見えないんだなあ。がっくり。

制作三昧

「3つのかたち」習作

涼しい、というよりちょっと寒い。ここ3日間ほどずっと雨と霧。時々はかなり強く降った。近くのチョロチョロの川も茶色の濁流となり、川幅も5倍ほどに広がっていた。

大きな絵はなかなか進まない。事前のエスキースが不十分だったから。なぜ十分にエスキースできなかったのかと遡れば、結局は自分の中の迷いに原因がある。なぜ、何を、どう迷うのか、それは言わないことにしておく。

小さな絵はいろいろ試みる。天気は悪いし、涼しいし、そもそもここで他にやれることは、本を読むことと寝ることくらいしかない。でも、暇というのは貴重なものだ、と思う。暇を大事に活用する、という考えがすでに間違っている、とも思いつつ。

風景画の試み

「風景」習作

今年は「風景画家」になる。それが目標と、とりあえず宣言しておこう。
あっ、その前に「あけましておめでとうございます。今年もよろしく」です。

毎年何度かチャレンジするが、いつも中途半端で挫折。風景が問題なのではなく、考え方がちゃらんぽらんだから。そして、なんの反省もなく、同じことを繰り返す。繰り返すほど失敗データだけが積み重なり、頭は失敗のカスだらけになる。

「風景画家」はともかく、私だけでなく現代のどの画家にとっても風景画は難しい。それは写真の視覚と戦わなければならないから。写真の機構、機能的レベルはすでに人間を遥かに超えている。しかもそれが誰の手にもあり、そのレベルに慣れっこになっている。どうやってそれと戦うのか?その戦略なしに、迂闊に風景画など描けないから。

もちろん、私たちの頭はまだ19世紀にあるから、通常は普通の風景を上手に描いていれば、(むしろその方が)十分に楽しい。