旅行したいな

「Apple trip」 2020/02/02 Oil on canvas F6

しばらく旅行していない。「移動」と旅行とは違う。自分勝手な定義だが、旅行とは何がしか非日常的で、少しばかり風景や文化の違いを感じられる場所に行くこと。通過もだめ。そして必ずそこで当地のものを食べることという条件が重なってくる。さらに一泊以上すれば旅行感はグッと上昇する。

現実の時空の中での旅行だけでなく、空想の中の旅行もしなくなっているかも知れない。忙しいというより、ちょっとした冒険心も無くなっているんだな、きっと。チャレンジャー精神が枯れているんだ。あ〜あ。

学生の頃は、ザック(リュック)と寝袋一つあればどこへでも行けるじゃないかと思っていたし、実際そんな格好で一月以上も旅行できた。行けばなんとかなるといつも思っていたし、旅行先でたまたま隣のホームに入ってきた列車の行先を見て、急に心がそそられて逆方向の列車に飛び乗ったり、多少困ることがあってもそれ自体を楽しんでいた。それは自分の小さな冒険心だけでなく、多少の無茶を多めに見てくれる、広やかな心が日本中だけでなく世界中のどこにでもあったからだ、とも思う。その人情(必ずしも温かいとは限らないにしても)に触れることが、旅行でなくてはできないことだったのかも知れない。

旅行しよう。とりあえず現実でも空想でもいいから、まず一歩。チャレンジは決心が要るから、とりあえず決心の不要な好奇心を膨らますことから。触れてみる。やってみる。もう少しだけ遊び心を取り戻したい、と思うことしきり。

「探しもの」–まだまだ探す気ですか

「Apple-jeans」     2020  Tempera on canvas  F6

井上陽水の「探しものは何ですか」ではないが、まだまだ探す気ですか、の心境を味わい続けている。見つかるはずもない「精神的な」探し物ではなく、物理的な「電源ケーブル」を、捜索を諦めてネットで新品を購入するか、まだまだ探す気ですか、の二択というわびしい話。

今日はある展覧会の、関係者だけのオープニング・パーティが午後4時から。私も出品していて、行くつもりではいたのだが、朝、昨日からの頭痛が少しあり、「風邪気味かな?」と思ったので遠慮することにした。そして、雨戸の修理。できなかった。それからケーブル探し。何かを探すということは、結局は片付けをすることにもなり、大規模な掃除に。でも、見つからない。その間に昼食を摂り、魚だったので、一部を時々庭に寝そべりにくる猫(首輪をつけている)にやり、食うところを見たりしながらケーブルを探す。

実は、もう3日も探し続けている。探す範囲は限定されている(それが思い込みなのかも)ので、一箇所あたりの捜索時間は相当になるはずだ。自分の顔のホクロ探しよりも慎重(なはず)だ。半年前、そこに置いた時点から、「ここはマズいかも」との不安だけがズバリ的中した感じ。

そろそろ諦めて新品を買うか、まだ探すかの選択が迫られてくるタイミングだ。嫌だなー、何でこんな時に雨戸が壊れなくちゃならないの!そういえば、インチサイズのマットがたくさん余っていたなあ–とか、何でこんな時に思いついちゃうんだろうかな。

音楽の「力」、芸術、スポーツの「力」

「西洋梨」 29Jan’20  水彩 F6

坂本龍一という音楽家がいる。もとYMOのメンバーなどと言わなくても、知っている人の方がたぶん多いだろう。先日、朝日新聞(電子版)での彼へのインタビュー記事を読んで、全く共感した。

「音楽の力」という言葉、言い方が嫌いだという。音楽に人を勇気づけたり、癒したりする力があるのは事実として、そういう「言い方」に違和感を持つというのだ。はっきりとは言わないが、その言い方がある種の政治的、社会的な方向への指向性を持たされることへの危険な匂いを嗅いでいる、ということだと感じた。その嗅覚に深い共感を持つ。

ワグナーの英雄的な響きがナチスに最大限利用されたように、日本でも歌謡曲的な音楽が半ば「軍歌」として広く歌われ、戦争を美化する方向に利用されたことは多くの人が指摘する。また、彼は高校生たちが(スポーツなどを通して)「感動させたい」という言い方をすることも「嫌だ」という。受け取る側が感動するのはいいが、演じる側が「感動させる」というのは傲慢ではないか、ともいうのである。これにも深く共感する。ついでに言えば、特にスポーツの若い選手たちがやたらに「感謝」という言葉を連発することにも、私は強い違和感を感じる。それは引退の時にこそふさわしい言葉ではないか。

選手たちが競技のための施設や助成金、多くの有形無形のサポートに対する感謝の気持ちを持つのは、もちろん悪いはずはない。けれど、素直な気持ちだけではない、「言わなければ」ならないという「圧力」を私はそこに感じる。その言葉がなければ、後でいろんな形でのバッシングがあることを、選手も関係者もひしひしと感じているからだ。無意識に「私たちの税金を遣っているのだから、感謝して当然」という感情が、そのまま上から目線の圧力になっていることに、私たちはもっと注意深くなければならない。そして、そのことをよく識っていて、密かに利用する暗い力があることにも、同時に意識的でなければならない、と思う。

音楽の力、芸術の力、スポーツの力。それが、人々を多様性でなく(実はこの言葉も最近特に聞きたくない語になってきた)、平面化する方向に働く(ここでは「共感」「感動」という語も怪しい匂いを漂わすことがある)ならば、それは本物の「音楽、芸術、スポーツ」の力を削ぎ落とし、歪なものに変質させる、一種の癌にもなり得るのだ。龍一氏曰く「やっていること自体が楽しい。それが大事」。そう。その存在を見るだけで、税金などとっくに元は取れているのである。