皿洗い

「Apple」  2020 Alquid

皿洗いしながらいろんなことを考える。じっと座って考えるより、皿洗いしながらの方がなぜかいい考えが浮かぶ。散歩しながらの方がアイデアが浮かびやすいと書いてあるのをよく読むが、私の場合だと目についたものからすぐ連想が広がってしまい、考えることには向かないようだ。

考えることの中身はほとんどの場合、これから描こうとする絵のことだから、朝食のあとの皿洗いが一番重要だ。だからといって、ボーッとして皿を落として割ってしまう、なんてことはない。鍋やフライパンも汚れが残ってないか、シンクの底や縁にソースやキャベツの切れ端がくっついていないかもちゃんと点検する。昨日より今日のほうがきれいになっているのが理想だと、心の中では思っている。そうしながら、頭の別のところで今日これから描く絵を描いてみる。シミュレーションするのである。

実際に描くと、絵の具の滑らかさ具合や、偶然できた色ムラなどに気を取られてしまうが、シミュレーションではまるで他人が描くのを見ているように冷静だ。そして途中で「あれっ?ここおかしいぞ」という場面で停止する。ほとんど録画再生の感覚。頭の中の映像を何度も再生して、気になる部分の原因と解決法を考える。

洗い物はほんの少しだから(特に朝は)長くても30分。普通は15分ほどで終わる。たいていその間に目先の解決法はできあがる。大したことは考えられないし、一回分しかない。それでも、実際にキャンバスの前に立つ前の、このシミュレーションはとても有効だ。皿洗いは私に課せられているわけではない。じっと座ったり、立ちっぱなしだったりするので、頭のリフレッシュと腰の血流のために勝手にやるようになっただけ。皿洗いと絵画の新しい関係である。

「不作為」の評価

「青い壺とリンゴ」 2020 水彩

「不作為」とは「敢えてやらないこと」、積極的な意味がある。似たような語に「無作為」というのがあるが、こちらは「何も考えずに」という意味で、「偶然に」に近い。多くの場合、評価というのは「結果」に対してなされるものだから、「やらない」ことを評価するのは、その方法も含め、案外難しいだろうと想像される。

多くの場合、評価には段階がある。学生時代の成績評価などはその典型例。数字で表せない事例でも、積極性、協調性、「明るい性格(!)」などには「高」評価がつき、何事も一人でやろうとするタイプには、協調性が無いとか、独善的などの「マイナス」評価がつきやすい。「引きこもり」=「悪」=「何とか社会に引っ張り出そう」という考え方もこのような評価から来ているようにも思う。外に出て、人と協働しないとダメなんていわれたら、芸術など成り立たないし、引きこもったままでも生きていける社会になった方がいい。

「積極性」って何だろうか。あるプロジェクトが企画されたとする。賛成・推進派と反対もしくは熟考派の3つ位には、最低でも意見が分かれるだろう。この時、プロジェクトを企画した方から見れば、賛成派=積極的、ほかの2グループは消極的と評価される可能性が大きい。反対する人は「敵対勢力」と見做されることだってありうる。「協調性」って何だろうか。嫌々でもリーダーに従っていれば、「協調性が無い」という評価はされないと思う。逆に、積極的にそのプロジェクトを理解し、その長短を考慮した上での反対であっても、少なくとも協調性を高く評価されることは(少なくとも私の知りうる範囲内では)稀有。

かなり荒っぽい論理になってしまうが、評価する側(の姿勢)に評価基準が偏りがちだということが、「不作為」の評価を難しくしている(ある意味自然とも言えるが)。日本の社会は、「提案・推進」=「建設的」と短絡的に捉えたがる精神風土を持っている。しかも、その提案自体、上意下達的な場合が多いように見える。提案に対する反対の場合でも「反対するなら対案を出せ」という言い方をよく聞くが、これも提案=建設的という固定した考え方をよく示している。そろそろ「AでなければBかC」ではなく、「Aそのものをしない」という不作為の評価と、その方法を考える時代になってきているのではないだろうか。

ホワイト & ブラック

「黒い瓶とリンゴ」   2020 水彩

白いもの、黒いものを描くのは、ちょっとチャレンジ気分になる。「白いもの」は周りを暗くすることで表現するが、「白の白さ」は、本体と周囲の暗さの序列をきちんと測り、その序列のままに表現しなければならない。しかも、無段階ではなく、きちっと5~6段階にまとめる、四捨五入のような操作も必要だ。

黒いものも同様で、平坦に黒く塗るだけではただの「穴」になってしまう。黒の中の明暗変化を微妙に描き分けることで、黒いモノの材質感を表現する。紙の上では「黒」と「暗さ」の違いは、材質感が有るか無いかが判定基準。明暗を見極めるカメラ的な眼と、それを描き分けるテクニック以外、「黒いモノ」をモノとして支えてくれるものはない。それなのに、よく描けてもせいぜいグラデーションの粗い、写真のような絵になるだけで、きらめくような華やかさや色彩の豊かな味わいなどと、ほとんど無縁な白と黒。けれど描く側にとって、このストイックなまでのマニアックさを、時々思い出したように味わいたくなるから不思議。

テンペラやアキーラ、油彩での「Apple」と水彩での青リンゴを、昨年11月からこの3月までの間に、4号から120号まで20 枚ほど描いた。制作量が足りないと思う。テンペラや油彩の「Apple」は頭で描く。水彩の「リンゴ」は眼で描く。「頭」に時間がかかり過ぎている。頭と眼との関係はこれでいいのかチグハグなのかは、今のところ自分ではよく判らない。

上のスケッチでは青いリンゴはダミー(仮)の主役、アイ・キャッチャーの役目。真の主役は黒い洋酒瓶(画面中央、コントラスト最大)。主役なのに、てっぺんをカットしたのが私の趣味。一つの演劇(パントマイム)を作っているつもりです。