自由・表現とは―ある禅僧のはなし

教室用デモ制作(未完成)

誰も気にせず、好きな時に、好きなことをする、それが自由だ。―「それは違う」と、ある禅宗の僧侶が言う。それは自分にとらわれている。好きな時、好きなこと、それらの多くは一過性、刹那的で、少し待てばどうでもよかったのかもしれない、という類のものだ、と。

自分は朝3時に起きて身の回りのことを始める。億劫でないことは一度もない(=億劫だ)が、あとで考えるとやはりそれが良かったと思えるからそうする。その時、もう少し寝ていてもいい(自由)が、あとで残念に思う。毎日の日課が決まっている。何をするか考えなくていい(思考からの自由)。だから、自分がどういう存在なのか、自分とは何なのか、大きな時間を自由に遣う事ができる、とも。

なるほどなあ、と思う。彼は外国人だが、若い時から「もっと自由に生きたい」と感じて、親元を離れ、国を離れ、仕事を離れて、日本のお寺に来たという。ところが修業では全く自由がない、いや、勝手にしても誰も何も言わないのだがどんどん孤立していく。経本を読むことさえできないのだが、誰も教えてもくれない。孤独になり、国に帰りたくなった。でも「国に帰って自分はどうする?」。―すべては自分から始まっている―だから、あらためて「自分に還る」。そこから世界が変わった、という。

なるほどなあ、と思う。自分に還る―「本当に」自分のやりたいことをやる、刹那的、瞬間的にではなく。そのためにどうするか。―何かを得ようとするのではなく、捨てること、空になることだ―そうだ、わたしも同じアドバイスを頂いたことを思い出した。それであらためて仏教のことなど勉強したんだっけ。
―本当に自分のやりたいこと―それが表現になっていなければ、そんな表現はいずれ「人目を欺く」類のものに過ぎないのかな、と思う。何と言ってもそういう種の表現であればこそお金も名声も得られるのだし―それを捨てる(「諦める」とは違うと思う)ことの難しさ、厳しさ、そして自分の表現のことを想う。

いま「ポテトチップス」?

Calbee Craft ポテトチップス (紙に鉛筆)

先月末、水彩クラスで「ポテトチップス」をモチーフにしてみた(その周辺のことはすでにこのブログに書いた)。これまでの「伝統絵画的モチーフ」からいきなりポテトチップスでは、生徒さんはまごつくだろうし、わたしにしても、これまでのモチーフで描いてきた絵とポテトチップスとの関係を、定義・確認しておく必要があるだろうと思ったので、実施の前に(iPadで)自分でいくつか描いてみた。そうして、世の中はモチーフだらけ、というか、モチーフの中に住んでいることにあらためて気がついた。

旅先で珍しい食べ物とかがあったりすると、今なら多くの人がインスタグラムなどで“すぐ”(不特定多数の人々と)共有することができる。が、ほんの10年前でも、そのようなかたちで(せいぜい)友人、知人と共有するまでにはかなりのタイムラグがあった。それには写真を現像、プリントして友人に郵送するなどしか方法がなかったような気がする。

共有するにはまず写真か文章(手紙)が必要だった。絵を描ける人ならそれにもう一つ「スケッチ」という武器がある。けれど、多くの人にとって、写真やスケッチの90%以上は記録のためであったと思う。だから、スケッチも絵の一つであるという認識はあっても、頭のどこかに「それは(本格的な)絵」のための、あくまでメモのような次元をこえるものではないというハードルを設けていた。
―「ポテトチップス」などは、そういう意味での記録的興味の対象ですらなかった。そこらじゅうにあふれ過ぎていて、あえて“記録する価値”が見出せなかったからである。それに「安っぽく」見えた。ただ、いかにも人工的、現代的な商品という外観は、ポップアートを持ち出すまでもなく、自分の中でも「これらを抵抗なく描いたら、そこから(自分の)新しい絵が始まるかもしれない」とは思っていた。9月に「青いカモメ展」が終わり、生徒さんの中にも、何か新しいことをやってみたいという気持ちが湧いてきていたところだったようで、「今がポテトチップスだ」―ちょうどいいタイミングで始める事ができたのだった。

水彩、油絵にも「いきなりポテトチップス」。そんなわけで鉛筆デッサンにもポテトチップスである(描き方は極めて古典的、オーソドックスだが、これは生徒さんの希望である)。現在の「高校の美術部」とかなら「え~っ、今ごろ~!?もう終わってるよ!」だろうけど。―それはともかく、実際に描いてみると案外に面白い。(本格的な)絵にならないどころか、これこそ「絵になる(すべき)」素材ではないか、とも感じてきた。

お菓子の棚はデザインの宝庫

チョコラスク

一昨日シャトレーゼで買った、クリスマス用ギフト用?のラスク。アイスを買うというので久しぶりにわたしも店内に入ってみた。そこで包み紙の綺麗さに惹かれて買ったのがこれ。今朝(11/7)の4時過ぎまで、10時間以上かかってCGで描いた。

家族は毎日アイスを1~2本食べる。わたしは一年に1本(個)食べるかどうか。冷たいものが苦手(夏場の冷やしそうめんは別)である。お菓子類もあまり食べないから、スーパーでもそういう棚には近寄らなかった。興味なかったのである。

最近、絵のモチーフを広げようと、そういう棚に積極的に足を向けるようにした。そこはデザインの宝庫である。食べ物、飲み物という商品は、まず買う人の目を引かなくては手にとってもらえない。メーカーにとって、そこが死活の第一歩だから、デザインには最大限気を遣うのも当然だ。高級品には上品なデザインが必要だし、安売り商品にはそれなりのアイキャッチが要る。

他人のデザインを自分の絵には使えない。それが創作上の鉄則である。わたしがお菓子類の棚に足が向かなかった理由の一つでもある。けれど、「練習・勉強専用」の「教材」と割り切って考えることで、安くて、豊富で、さまざまなアイデアに満ちた、巨大で常に新しいストレージをそこに見出すことができた。これを使えば、まるまる一部屋以上のスペースを楽器だの壺だのに占領されることはなくなる―はずだがどうだろうか。