チョコボールのなかみ

「チョコボールのなかみ」を描く

2022年最初の動画アップです。森永の「チョコボールのなかみ」つまりピーナッツが入っている(と思う。まだ未開封なので)。11月頃だったか、教室のモチーフ候補として買われ、ずっと補欠の身分のままわたしの目の前にいる。

難しい光沢反射のないマットな表面、比較的シンプルな色彩で、文字数が少なめなのも描きやすそうに見えた。ただ、この青が意外に手ごわいかもと躊躇しているうちに、教室ではもっと高度な課題をクリアしてしまった。といっても、コイツの出番が無くなったとは限らない。何が難しいかは人によって異なるし、描き方によっても違ってくるからだ。

なぜこんなモチーフを選ぶかという理由はもう繰り返さないが、単純に練習用と考えれば実にお手軽。安いだけでなく、描き終わってご褒美に食べてしまえば置き所に困ることもない。そのくせ、描き方によっては馬鹿にできない高度なテクニックを磨くこともできる。壺とかバイオリンなど、描いているとき以外はただの邪魔者として生活空間を圧迫する。溜まってくると堪らない。

二日連続で午前3時まで制作。若干目がしょぼしょぼ気味。2時を過ぎるとちょっと疲れを感じてくるのは年のせいか。もう少し、もう少しと思うとつい時間を忘れてしまう。それが健康のバロメーターになっているのかも知れない。

「ITバス」に乗れないわたし

「クロワッサン」をアトリエで制作・撮影中

2ヶ月ぶりのビデオ撮影。毎週1回は撮影するのが目標だが、いまは全然できていない。時間が無いのではなく、「能力」のほう。それも特殊な能力を要求されるわけではなく、たいていは経験を重ねれば誰でもできることなのだから、単にサボっているとしか言いようがない。

アトリエが狭いことがサボりの遠因。「片づけ」という事前のひと手間が必要で、この作業のために意欲がドドッとそがれてしまう。回数が間遠になると準備作業がスムーズに流れなくなり、カメラやほかの機材に表示される数値の意味も忘れてしまうので、歯車が二重三重に嚙み合わなくなってしまう。撮影機材を出しっぱなしにしておければいいのだが、我が家のスペースは中途半端でとても使いづらい。

2019年から、コロナ感染による緊急事態宣言などで空白の時間ができた。最低でも1~2年はそんな状態が続き、その後の世界観にも必ず変化が起きると思ったので、以前から必要性を感じていたCGによる制作や映像制作の練習を、この機会に本気でやってみることにした。撮影機材にも自分なりに投資し、時間を割いて勉強、練習を始めた―ところまではよかった。

そこまでは良かったが、突きつけられたのは想像していたより遥かに自分がアナログに凝り固まった人間だという現実。自分ではもう少し柔軟性がある気がしていたが、始めてみるとガチガチで、すっかり「絶望の海の縁にたたずむ流浪の人」。けれどもう後戻りはできないし、戻ればわたしの絵画人生もそれで終わる。――のん気に歩いているうちに後から来たITバスに追い越されてしまった。バスはどんどん遠ざかる。しょうがない。バスの軌跡をたどりながらてくてく歩く。息子は「そんなに先じゃないよ、次のバス停は」と励ましてくれるが、ちゃんと跡を追えているかさえもう定かではない。ITの世界では、続けているうちに急に翼ができて飛べるようになる人もいるらしい。それを希望に、明日もあれこれいじって行きまする。

幸福な時間を過ごしましょうよ

「クロワッサン」を教室で制作中(水彩:なぜか食べ物を描くのは精神的にもいい感じ)

さまざまな事情で絵から離れた人から時々ハガキなどを頂く。それらのなかには「あの時間は最も幸せな時間でした」と書いてあることが少なくない。多少の美辞麗句はあるとしても、正直な心情も込められていると感じる。

一枚の絵を描くのには大小さまざまな山や川を越えなくてはならない。それらの幾多のハードルの中でいちばん大きな山が「時間」だろう。「お金」という人もいるだろうが、それはたぶんお金を稼ぐために絵を描いている時間がない、ということだと解釈している。コストという意味では、絵は最もお金のかからない精神的な遊びのひとつだ。実際に、鉛筆一本で自分の世界観を表現することは誰にでも可能だから。原始時代の洞窟壁画には鉛筆すらなかった。

家族の成長とか老化など、いろんな条件を勘案して、「自由に伸びのび(気楽に)」絵が描ける(絵に限らないが)時間を試算してみたことがある。同じことを考える人は少なくないらしく、それらの意見を総合するとだいたい3~10年くらいになりそうだ。日本人の平均寿命が男女とも80歳を超えて久しいのに、この短さは何を表しているのだろうか。―わたしの周囲の人々の多くは皆さん軽く10年以上描き続けている。ということは、単に“ラッキーな人生”ということではなく、むしろ相当な犠牲を払ってでもそれを続けているということになるのだろうか。

ある女性美術家がわたしに言った。「絵を描いている人はみんな愛しく思える、可愛いと感じる。」自分が愛する「絵」を、ずっと愛し続けている人はみなかけがえのない仲間だ、そんな気持ちの表現だろうと思う。彼女ほどの心境にはわたしまだ達していないが、犠牲を払うほど絵は純化していくような気がする。シーンと集中して筆を動かしている人を見ていると、幸福というのは外から見えるようなものではなく、そういう一瞬一瞬にあるものかな、などとも思う。