「透明感」の表現

試作とバリエーション(制作中)
 上:ワトソン紙に水彩
グラスのりんご  キャンソン紙に水彩

先日、水彩教室で「水の透明感」というテーマをやってみた。そしたら、今度は「ガラスの透明感」をやってみたいというリクエスト。当然ですよね。

「透明」感とは、ごく単純に言えば「向こうが透けて見える」ことだと、わたしたちの経験は教えてくれている。水の底の石や藻や魚が見えるから、その水は透明なんだな、と感じてきたのです。そしてそこに、ほんのちょっとの物理学でいう「屈折」や、「フィルター」としての水の色が被るとさらに信憑性が増すことも、もう知識化されてしまっている。それはビニール袋やプラスチックのパックでも同じ。

17世紀、18世紀のヨーロッパの油彩画には、ガラスの器に果物を入れた絵がたくさん描かれている。それが当たり前になってしまった現代から見ると、つい見過ごしてしまいがちだが、ガラスがやっと世の中に普及し始めた頃の「ガラスの透明感」の描写力は、ルネサンスにおける「透視図法」に匹敵する、「画家の力量チェックポイント」だったのです。油彩画よりは水彩の方が、水彩よりパステル画の方がさらに透明感の表現は難易度が増します。仮に色鉛筆で透明感を表現しようとすると、結構難しく感じるでしょう。だからこそ積極的に「ガラスの…」が描かれたのでしょう、自分のテクニックをアピールするために。

上の絵はアピール用ではありません、念のため。このキャンソン紙の素材はGrain たぶん小麦の殻。それもあってか、すこし滲みの大きい、古風な味わいの出る紙。ガラスの硬質な感じにはちょっと合わなかったかな、と感じました。

わたしのビデオ製作

懸案だった、上のビデオをやっとYouTubeにアップしました。4時間以上の収録を16分50秒にまとめた。カメラで撮ったように思っていたが、あとで見るとスマートフォンでの撮影。そのため画質はイマイチだが、わたしにとってはかなり苦労したビデオなので、ぜひ見てやってくださいませ m(__)m。(真ん中の▷を押すと見られます)
 これからチャンネル登録者「100人」を目指すので、ついでによろしくお願いします。「100人」に特別な意味はないのですが(わたしにどこからかお金が降ってくるなどということなども、もちろんありません)、ビデオを作り続ける励みになると、どの方も仰っていますのでひとつの目標です。
 ちなみにYouTube 見てもお金はかからないし、登録したからといってなんの義務も生じません(「新作が出来たよ~」というお知らせが届く以外にメリット?もありませんが)。

苦労話を一つだけ。BGM。ビデオの背後に何気なく流れている音楽のこと。その音楽をわたし自身が作曲、演奏しています―なんてわけはありません。どこからか頂いてくるわけですが、まず、どこにそんなのがあるか調べることから始まって、見つけたサイトから著作権フリーの音楽をダウンロード。どれがいいか聴き比べますが、音楽の素養が全くないわたしには、どれが適切なのかまったく分からないことがよく解りました。
 選べば選んだで、今度はどれも同じに聞こえてしまう。しかも、ナレーション優先で音量をずっと絞るので、耳が遠くなったわたしには、ほぼ聞こえなくなってしまうという事態。ヘッドホンで解決できる問題ではないので、周波数とデジタル数値を理解するという難題が出来てしまいました。

ビデオの基本は映像、語りや字幕、それに音楽の3点セットだそうです。そんなビデオを100本作れば何とか作業は覚えられるそうですが、わたしの場合、これが3本目。映像担当者、文字・文章担当、音楽担当、制作担当兼監督(わたしだ)の4人いればペースはあがるが、ビジネスでもないのにそんなことはできません。老齢化とともに、ペースはさらに落ちるでしょうから、100本できるころにはわたしの寿命は尽きてしまう。文字どおり冥土への土産なのか。うーむ。やるべきか、やめるべきか、ハムレット的心境もあり。

プラチナ・ジュビリー

晨春会展も無事終了。乾杯!

英国・エリザベス女王の即位70周年を祝う祝賀行事が4日間の国民の特別休暇とされた。その最終日のパレードと、バッキンガム宮殿のバルコニーから手を振る、96歳の女王の姿が全世界に向かって放映された。

「英国とは何か」を、深く、象徴的に感じさせるシーンだった。ヨーロッパはいま二つに分かれ、ウクライナの地で戦争中だ。イギリスは相当の負担を自らウクライナに注いでいる。「でも、それとこれとは別だ」という、あたりまえのようだが、いざとなれば決してあたりまえには行えない、このような「(女王とはいえ)個人的行事」を、いま堂々と誇示する「プライド」にそれを感じる。

経済力から言っても、政治力から言っても、軍事力から言っても、かつての大英帝国はもう世界のベストスリーには数えられない。にもかかわらず、第二次世界大戦中、ドイツから爆撃やロケット攻撃をうけて、ドアも壁も吹き飛ばされたロンドンのレストランが、「間口を少し広げました」と掲げたジョークに込められた、いかにも騎士的な精神が、このプラチナ・ジュビリーにも根太くつながっていると感じる。たとえば軍事力のような、眼に見える力だけが力ではない。在位70年、ぶっきらぼうで、時には冷たい皮肉屋のイギリス人と一見矛盾するかのような、「前近代的」君主制度。「それが俺たちさ」と誰に対しても普通に言い、それが敬意とある種の羨望を伴って世界中に受け入れられる国が、英国以外のどこにあるだろうか。

イギリスは合理主義の国だ。けれど、実は矛盾も、不合理もあるいは他の国よりも重く、深く抱えているようでもある。世界を、いったんはまるごと飲み込んできた、桁外れな度量の大きさと、死にゆく巨象の眼を覗き込むような、どこかに哀しみを含んだその歴史。70年かけて、女王の存在を「諾」と祝福しつつ、決して単純なお祭りに終わらない、イギリスの深さを感じさせた。