Good, Better, Best って覚えてる?

「ポインセチアのテーブル」  水彩 F6

ポインセチアを続けて描いている。描くごとに自分でも、勘どころというか、コツというか、こう描けばこう見えるという効果?が分かってくるので、「じゃあ、こうしたらどうなるかな」という現実的なトライがし易くなった。“持ちのいい”(植物だ)からできること。折れてもこの通りだもの。

描いたあとでアッと思ったことが2つある。

一つは水差しの把手上端部。本体との取り付け部分に影をつけ忘れた。このままでは把手が斜めに付いているように見えてしまう。2つ目は青いリンゴ(に見えるかな?)の入った大鉢。手前側を(リンゴの半分が隠れるくらい)もっと大きくするべきだった。把手の影はあとでもつけられるが、鉢のほうはもう直しようがない。もうちょっと考えるべきだった。

ポインセチアの表現だけにとらわれて、頭が柔軟に働いていなかった。でも大丈夫。これはスケッチだ。仮に作品化するなら、その時に今の反省を活かせばいい。とりあえず、描いたことが Good. これを自分なりに変形、アレンジできれば Better 。これだ、という表現ができれば Best 。中学生の時、英語の比較級表現を勉強しましたよね(たぶん)。こんな時に使えるのかなって・・・。(えっ、違う?どうしよう‥)

解説バージョンをアップしました

「ポインセチアを描く」解説バージョンをアップしました。先日アップした「ポインセチアのスケッチ」の解説、ロングバージョン(15分11秒)です。並行してやっていた、というより、このバージョンの一部をまとめて絵を描いていない人にも興味を持ってもらえるようにした(つもり)のが「スケッチ」。こちらは、いま実際に絵を描いている人向けのもので、モチーフは同じでも中身も方向性も異なります。

この後は少し時間がかかりますが、年内には風景の現場スケッチのビデオを公開したいと思っています。鳥の声がわんさか聞こえる中でのスケッチはいいですよ。年内と云ってもあと2週間。年の瀬はいろいろ忙しくなるので、結構必死でやることになるでしょう。

ついでに言っておくと、こういう類のビデオ(わたしのとは限らない)はスマートフォンでももちろん見られますが、可能ならばぜひパソコン上で見てください。やっぱり画面が大きいと、たとえば水彩なら紙の上を流れる水の量も分かりますが、スマートフォンでは、筆の動きしか分かりません。絵を描いている人はぜひそうしてください。

とりあえず、今日はこれでゆっくり寝られそう。おやすみなさい。

青いカモメたち

sさんの練習帳から
Tさんのフェルトペンによるスケッチ
Tさんのフェルトペンスケッチ2

青いカモメの絵画教室の2つのクラスの人の、Sさんは個人練習帳から1枚、Tさんは先日のスケッチ会のものを2枚ピックアップさせていただいた。

Sさんの水彩スケッチは、難しい対象を選んでしまったかもしれない。モチーフの実物も見せてもらったが、ほぼこの通りだった。微妙な色のグラデーションで、そのうえややドローンとした図柄。ひとことで言えばちょっとデザインが良くないのだが、それはSさんのせいではない。しかも描くために選んだのではなく、必要で買ったものを描いたまでのこと。よく描いてある。このような素材を、時間を括りだしてはコツコツと自らの練習台にしている。継続は力なり、をかならず体験するはずだ。
 Tさんのスケッチには、子どもの絵のような楽しさがある。本人的にはともかく、一見遠近法を無視したような描き方が、そんな感じを強く引き出している。透視図法的な感覚がしっかり身についていないせいもあるが、仮にきちんと正確な図法で描かれたら、この面白さ(不思議な空間体験と言えばいいんだろうか?)がもっと出るかと言えば、たぶん真逆だろう。絵画の奥深さはじつはこういうところにある、と思う。

写真のように正確な描写、技法・図法・色彩理論などの正しい理解、それは確かに人を納得させるには必須の条件だった。少なくとも多くの人々が比較的「無知」であった近代までは、視覚を通して“教育”するのが絵の役割の一部でもあったからだ。「客観性」がなければ教育は説得力を持たないから当然である。
 ところが、現代では「人間というものはよく解っているようで、実はよく解らないところがある(変な)生き物だ」ということが、以前よりずっと分かってきた。人間への理解が深まるほど、一方で謎はむしろ深くなってきたのである。やや極端な言い方をすれば、明日、自分が何を考えるかは、その時になってみなければわからない。「客観性」と「主観性」の境目が再び曖昧になってきているということでもあるだろう。

そのような人間理解のなかでは、「人間の物の見え方は透視図法だけが正しい」などと主張する方が「正しくなさそう」である。透視図法や写真的正確さは、比較的説得力のあるひとつの表現法だ、と考えておくのがせいぜいで、そこにこだわって良し悪しを判断するのは適切ではなかろう。もちろんSさん、Tさんの描き方が正しいという言い方も、同様の意味でおかしい。―これは確かにわたしの絵だけれど、まだ「わたしはわたし」と言い切るまでの自信はないわ、とそれぞれの絵が小声で語っているのも正直で好ましい。