大学入試

「房総の漁港にて 」 フェルトペン+透明水彩

今日は全国で多くの国公立大学の入学試験、第1日目が行われる。受験生にはぜひ、日ごろの勉強の成果を存分に発揮してほしいと心から思う。もうだいぶ前になるが、我が家でもこの時期、皆があえて“リラックス”を意識するほど緊張していたのを思い出す。

「手が震えてうまく字が書けない」と子どもが言っていたのを忘れることができない。それだけ受験生は緊張している。彼(女)らの人生で、たぶん最大のハードルと感じられているからだと思う。

「どこの大学を出ても、卒業してしまえばあとは本人次第」という人がいる。けれど、少なくとも日本の現実では、どの分野でも最終学歴(出身校)は一生つきまとう(子ども本人だけでなく親のそれも)。ごく最近では履歴書に年齢欄、最終学歴欄がない仕様で募集する会社がポツポツ出てきたようだが、まだほんの一部。子どもたちは敏感だから、マスコミや文科省の云う大学選びとその後の社会との関係の“理想像”など殆ど信用していない。信じるのは彼らの身近な先輩の、ナマの体験談。

これもだいぶ前のことで恐縮だが、「実力で人生を切り開く」を(逆?)テーマにした、アメリカのショートアニメを思い出した。~二人の小学校の同級生。女の子は移民の子で母子家庭。男の子は富豪の〇番目の子。父親は大きな会社の高い地位にある人だ。~~男の子は専門の家庭教師を何人もつけてもらい、有名大学へ無事合格。女の子は母親の体調が思わしくないので、高校を中退して働き出す。~~次に二人が出会うのは(男の子の)結婚式のシーン。そこで新郎(男の子)は宣言する。「僕はずっと自分一人で努力し続けてきた。頑張って不可能なことなんて、ないんです。」来賓も言う、「富豪の息子だからというだけでは、現代では通用しません。ここまでの成果は彼個人の努力以外に何もありません」~~式場からカップルへの、プレゼント用の結婚式ビデオをずっと撮り続けているスタッフが「女の子」です。―直接、大学入試に関係ありませんが、入試を報道する各社のスタッフの多くは“いわゆる”一流大学出身の人ばかりなんだよなーと思いながらニュースを見ていました。――受験生、みんな頑張れ。

Call it a day.(今日の分は終わり)

やっとアップロードできました

2ヶ月近く懸案だった「野外スケッチ動画」をやっと昨日(1月8日)アップロードできた。お正月はお酒も呑まず(呑んだが)、餅も食わず(雑煮も食べたが)の「気分で」これにかかりきりだった。内容は実に平凡で、取り立てて言うほどのことは何もないが、途中で編集上のミスがいくつも重なったので(吞み過ぎるからだろ?)、その修整過程が、実は一番勉強になったのだった。でも、まあ、ひとつ肩の荷を下ろした気分―まさに Call it a day だった 。

けれど、アップした途端に現実に還った。10日からはもうYouTubeじゃない、リアル「青いカモメの絵画教室」が始まる。何か適切なモチーフはないか・・・「適切なモチーフ」はもちろん一人ひとり異なるに決まっているが、物理的、時期的に入手不可能なものもたくさんあるから、とりあえず花や野菜、果物など画材に使えそうなものを探し始めた。

リンゴを描く人(たとえばわたしのような)が、必ずしも目の前にリンゴを置いて描くとは限らない。たとえばわたしの場合は、実物のリンゴが目の前に在ると「邪魔」である。わたしにとってリンゴは重要なモチーフではあるが、別にその物理的外観をなぞりたいわけではない。わたしにとって「内的で」「リンゴの許容(包容)力(を意味するカタチ)」だけが必要なのであって、そのあとは記号としての「リンゴというモノ」のままでいてくれる方が好ましいのである。

写真的写実を発表している画家たちの多くも、実はわたしと似たり寄ったりで、その人にとってのいわば真実を描こうとしているので、目の前の物理的(光学的)に見えるままを描こうとしているわけではないようだ。むしろそこからまったく離れているように見える中小の画家たちが「わたしの絵は写実です」ということが案外多いと聞けば、一般の人は驚くかもしれない。対象物と作者との関係は意外に面白いテーマで、小説家などが良く取り上げるだけでなく、ピカソなど執拗なほど「画家とモデル」という関係性自体を描いている。「具体的なモチーフ」=「描くべき対象」だと固まっている人、ある意味ではモチーフが「反面的に」あなたを描いていることがあるかもしれませんよ。
 自分とモチーフとの関係について、ちょっと考えることがあっても楽しいかもね。

Step by short step

今ごろ年賀状だって

step by step (一歩ずつ)という慣用句を自分の感覚に合わせて作りなおしてみた。「一歩」というのは(わたしにとって)意外に大きく、半足(足裏の長さの半分)ずつ、見た目で言えば“すり足”のように進むことさえかなわないことがある、という意味を込めたつもり。(ちなみに、英文的には不適切な句だと思う)

毎回動画の話で恐縮だが、あるYouTuber が言うには「YouTubeを始める人のほとんどは挫折する。」最初の数カ月は一歩も進まないからだという。頑張って動画を作っても、反応がゼロかそれに近い日が続き、少し視聴数が増えても、嫌なコメントが来たりすると落ち込んで熱意を失う、のだそうだ。

幸い?わたしの場合、わりと最近まで視聴数とか全然気にしていなかった(そんな余裕もなかった)。とりあえず作る練習。作ったものをアップする。この二つを繋ぐことができるだけで100% 満足できた。そんなごく小さな技術的なことを一つ覚えるたびに、小さな喜びを得た。小さな成功体験の積み重ねというやつ?
 「ほとんどの人は視聴数〇万回とか、チャンネル登録者△万人というところだけ見て、自分にも簡単にできそうだと思う」とも言っていたが、「そんなの無理」と真面目にとらえなかったのも、まだ続けられている理由の一つかもしれない。いろいろ数値や例を挙げて説明していたが、一言で言えば、結果を早く得ようとし過ぎるからということのようだった。
 動画であれ、なんであれ、最初は(対外的な)結果など望めないのが普通。けれど、(自分の中では)難しかったところがなんとなくできるようになった、それらしいかたちをとれる、とるのが苦にならなくなってきた、など小さなステップアップは手応えとして誰にでもあるものだ。その小さな short step の積み重ねが step を作る。実際、皆そうやってきた。

苦しいのは、それがどれだけあれば 「一歩」になるのか、それにどれだけの時間がかかるのかが分らないということではないだろうか。今のアメリカ流の教育法の一つは 、step をできるだけ小さく区切って、具体的な目標を明示することなのだそうだ。そしてこの教育法が多くのノーベル賞受賞者を生んできた、と何かで読んだ。
 これが出来ればグッジョブ、それもできればコングラチュレーション(おめでとう)、グレート!(すごい!)。(日本流に)遠いゴールだけを見て、「これくらいじゃまだまだ」と思うから苦しい、のかもしれない。自分で自分を教育しよう。人が褒めてくれなくたって自分で勝手に褒めよう。ご褒美も用意しよう。Step を さらに小さく区切って、まずは自己満足から Start from a step.