ゼラニウムの構図

「ゼラニウムの構図」習作 水彩 F8

「構図」という言葉は美術の用語ではなく、一般用語だ。けれど、「構図ってなんですか?」と訊かれると、なかなかパッと一言では答えられない。パッと説明できないものはよくわかっていない証拠。「構成」の方がずっと説明しやすい。

「構図」の方が抽象的、かつ「文学的」だ。だから、題名にはよく使われる。赤の構図、青の構図といえばすぐ小説などを思い浮かべるし、貧困の構図とか○○金脈の構図などと言えば、ノンフィクションやジャーナリズムを想像する。この場合の「構図」は、かなりムード的なもので、ほとんど具体性がない。絵画での「構図」ならもっと具体性がありそうなものだが、こうした流れを絵画も引きずっていて、せいぜい大雑把に数本の線を引いて、「対角線構図」だの「三角形構図」だのと役に立たないことを口走っているに過ぎない。

「構図」には色の話など全然出てこない。絵画なら、もっぱら画面上でのモチーフの配置と、一歩引いてみた時の線的な効果だけに留まる。その点、「構成」となれば、色の対比、かたちの対比はもちろん、視覚的なあらゆるものが具体的、詳細に、論理的に吟味、検証されうる形式で記述される。絵画では「構成」という語の方がふさわしい。

けれど「ゼラニウムの構成」と「ゼラニウムの構図」では、すくなくともこの絵では「ゼラニウムの構図」の方がいい、と思う。先に述べた「文学性」と重なるところもあるが、「構図」には作者の主観性が滲みでているように感じるから。この絵では、モノの配置や板の並び方などわざと微妙な角度に「構成」している(水平線は一本もない!)。けれど、そういう論理的なものを越えて、画面というものに対する「わたしの主観・好み」といったものが漂っている。それを意図するならば、「構成」という言葉ではどうも包括しきれないような気がする。だから「ゼラニウムの構図」なのである。

波が立っている

波しぶきの表現はCGによる(制作中)

波は目の前に立っている
見上げるほど何段にも重なって
そこから風がびゅうびゅう吹いてくる
また一段
波が重なった

ドアも窓もすでにない
いつのまにか波に向かって歩いている
膝までの水の中を

もう引き返せない
けれど、もう進むこともできない
波はますます高くなって
僕を見下ろしている

とりあえず、僕は手を洗う
顔を洗い、耳を、眼を洗う
そうして波の中へはいっていく

朝、目覚めにこんな詩が浮かんだのでメモをしておいたもの。

長い息をしよう

ブログでは絵に関わる楽しい話題を書きたいと、いつも思っています。本当よ。けれど、なんだかいつも真逆の結果になっていることが多いような気がする。なんでだろう。現実に楽しいことより、気が重いことのほうが多いのかもしれないが、それでも何とか楽しい話題を見つけて共有したい、本当にそう思ってふだんから探しているんですが。

この動画のサムネイル(動画の看板。クリックする前に見る画像のこと)を見てください。なんてダサいんでしょう!自分でも嫌になるけれど、正直どうしたらいいのか、まだわからないんです。こういう感じで、つい気が滅入ってしまうんですよね。

いかん、イカン。そこから離れてもっと先を見なくっちゃ。
 土曜日は撮影日。日曜は朝から寝るまで編集、と目標は掲げているけど、ナカナカ。例えば今日(2023.04.15)、新規の動画の全体、部分ごとのテーマやモチーフを決め、撮影するはずだったのに、ついYouTubeで「撮影の基本」とか「トランジション(場面移行)のやり方」など見てしまう。これはこれでわたしには絶対必要な勉強だけれど、それで午前中の時間を遣い果たしてしまった。日曜には庭木の枝切とかの家事が舞い込んできたりとか、全然編集できない日もあって、目標の「毎週1本のアップロード」が出来たのはたった1回だけ。それが今回初めて、なんだ。

そこを「やったー!イェーイ」と書けば“楽しい話題”になるのかもしれないけれど、撮影は4月4日だったから、10日もかかっていることになる。ちょっと「イェーイ!」までは気分が追いつかない。
 ああ、いかん、イカン。また沈み始めてきた。長距離を泳ぐ鯨のように、水面に顔を出して、たっぷり長い息をしなくっちゃ。下を向いていると肺がしぼみ、脳への酸素供給量が落ちる感じがする。今日は雨だから、家事は少なくて済みそうだ。さあ、頑張って撮影しよう。