「黄昏(たそがれ)」制作中

「黄昏(たそがれ)」制作中 テンペラ

作品を創るとき、わたしは「一語」でその作品のコンセプトを言える方がいいと常々思っていて、受講者の方にもときどきそれを要求することがあります。題名とコンセプトは似ているときもありますが、多くの場合は表現の角度がすこしズレているものです。たとえば題名は「Apple」、コンセプトは「Juicy:ジューシー」みたいな。

この作品の仮題(一応つけておきます)は「黄昏(たそがれ)」。コンセプトは「果てしない孤独(または華やかな孤独)」。陳腐、ですか?いずれにせよ「孤独(感)」がテーマです。

嘘でしょう~!?という声が聞こえそうです(笑)。確かに、上辺の派手な夕陽(?)のイメージは、多少孤独感に関連あるとしても、Apple上のポップな色△は、「『孤独』とどうつながるんですか!」って、噴火してしまいますよね。ごもっともです。
 でも、ここは「孤独」のとらえ方の違いです。わたしにとって、「孤独」は「すべての生物は必ず死ぬ」という「客観的事実」とストレートにつながっています。「死は共有できない」=「孤独」と言い換えてもいいでしょう。
 一方、そう言う論理とは別に、「寂しい」という感情は誰にでもあると思います。それは人それぞれ、時と場所により、千差万別ですが、その本質は「喪失感」だと思っています。モノは有り余っているが、本当に欲しいものはない。行きたいところはいっぱいあるが、どこへ行っても何かが満たされない。たくさんの人と会い、楽しく過ごせるけれど、自分自身がどこかへ行ってしまっているなどなど。
 そのギャップを大きく感じさせる手段として、派手さや華やかさがあると考えているわけです。もちろん、キレイな色自体を使いたいという気持が先にあるからですが。

「黄昏(たそがれ)」って、題名としてはかなり安っぽいですが、とりあえず「言葉」的に、感傷的な「寂しさ」を想起させてくれるはずです。そして絵の内容(形や色や構成)でその陳腐さを裏切るのが理想です。たぶんこの作品が、わたしが東京・銀座で発表する最後の作品になると思います。キレイにまとめることなく、存分に壊し、壊れたままで出品できたらいいなと思っています。出品は10月中旬。そのうち、またご案内いたします。

宅配便

制作中 F100 テンペラ

暑いですね、と先月からもう何度書いたことか。朝から「“もう今日の予定はありません”」とリマインダーに表示されると、ちょっと寂しいような、「“もう” だけ余計だよ」と口を尖らせたくなるような気持になります。でもまあ、このくそ暑いのに出かけずに済むだけマシかと、自分の仕事?にかかります。

すると、決まったように “ピンポーン” と宅急便が来る。わたしはどちらかと言えばクーラーが苦手(体が冷えて胃腸の調子が悪くなる。扇風機の風も直接は当てない)なので、汗をかきながら、一人の時はいわゆる“パンツ一丁(と薄いTシャツだけ)” で仕事をしています。ですからそれが鳴ると、あわててそこらにあるズボンなりに脚を突っ込みながら、転びそうに玄関に走って行く。最近では何も言わずに荷物を置いていくだけのことも増えましたが、それでも毎日のようにピンポーンが来ます。

手を洗う時間もない。ちょっと手間取るとするとすぐ「不在連絡票」を置かれてしまいます。再配達も気の毒だし、こちらも面倒くさい。一日に3枚も不在票を置かれたことがあります。玄関に辿り着くまで、数秒長くかかったからでしょう。宅配の人も秒単位で動かないと仕事が終えられず、待つ余裕などないのだろうと推察します。
 宅配便は便利ですが、できれば人を使わずに済ましたいと業界では考えているに違いありません。ドローンやロボットの方がもっと“酷使” できるし、見方によっては単純作業の一種でもあるので、効率化が進めば人件費より安くなることも可能だからです。

いずれは宅配もドローンやロボットがやる仕事になるのでしょう。でも、その時、宅配の仕事をしている人たちに “時間の余裕ができた” とはわたしはたぶん思いません。おそらく、ただ職を失ったに過ぎないでしょうから。

花はどこへ行った

「海辺にて」水彩(制作中)

BBC記者のウクライナ戦争最前線、ウクライナ側からの現地取材のワンシーン。兵士の傍に行きつくまで、ほんの少しの時間ですが、周囲の風景もカメラの揺れの中、視界にはいってきます。腰くらいの高さでしょうか、わりに背の高い草が、畑の中の小さな道のわきにずっと生えていて、そこに白い花がたくさん咲いて微風にゆらゆら揺れています。その花の下で、兵士は腹這いになって銃を連射しているのです。映像を見た瞬間、思わず「花はどこへ行った」のメロディーを思い出しました。

「花はどこへ行った」は、ベトナム戦争の反戦歌として、当時は世界中の若者たちに歌われました。この曲を作ったピート・シーガーは、ロシアの作家ショーロホフの「静かなドン」の一節に出てくる、ウクライナの民謡に触発されたのだそうです。両国に深く関わるこの歌こそ、いまロシアとウクライナの若者たちに最も歌って欲しい曲かもしれません。
 この曲は、戦争の当事者であるアメリカの、若い人たちのあいだであっという間に広まり、その広がりの中でアメリカの「敗戦」として20年にわたるベトナム戦争は終結したのでした。

アメリカと同じように、ロシアから反戦の意識が広がり、戦争の終結へと向かうことができるでしょうか。ぜひ、そうあって欲しいものですが、今のロシアを見る限り、反戦意識の高まりから終結へ至る道すじは想像もできません。どちらかがギブアップしない限り、1年や2年で終わるとは思えない状況です。
 ヨーロッパのの歴史をサラッと見ただけでも「30年戦争」とか「100年戦争」などの文字が見えてきます。昨年アメリカが撤退して、一応の結末を出したばかりのアフガン紛争も20年かかりました。ベトナム戦争も20年です。シリア内戦も10年以上経って、現在も続いています。この戦争もそのくらい長期にわたる可能性があると覚悟しておく必要があるかもしれません。

たくさんの命と、ドブに捨てるような莫大なお金。それをこれからの人間たちのために遣ったならば・・と誰もが思っているはずなのに、その思い、その花はなぜいつまでも、待つ人のところへ届かないのでしょうか。