散歩道の拾い物

美しい蛾オオミズアオ(大水青)
「散歩道1」
「散歩道2」

散歩道にはいろんなものが落ちている。かつてプロ野球近鉄バファローズ(現在のオリックス・バファローズ)のエース、鈴木啓示投手が「グラウンドにはカネが落ちている」と言ったが、それと同じような意味で、落ちている。運が良ければ「健康」も拾える。

先々回、タイサンボクの実など「拾った」が、今回はオオミズアオ。それと下の2枚。オオミズアオには、もっと下の翅の長く伸びたものなど、同種の中でもバリエーションがある。サイズも、子どもの手のひらくらいあり、色ももっと大胆な、その名の通り「青」いものもある。毒はないので触っても大丈夫らしい。
 調べてみると、成虫では口が退化し、栄養を摂ることができない。幼虫の時の貯えだけで生き、一週間で命尽きると書いてある。ほとんど交尾産卵のためだけにこの姿になるのだと考えると、なぜか哀しい気持にもなる。

昨日、参議院選挙の投票日。わたしは前日に期日前投票を済ませていたが、一言にまとめると既成政党の主張と新興政党?との主張(の仕方)が有権者とずれている、ということか。どちらの主張が正しいかの判断は有権者個々のものだが、どの政党にも10年先のビジョンというものがないんだな、と。「みらい」はどうか判らないが、票は投じなかった。

強風のあと

たくさんの実が落ちている。これはクサギかな?
タイサンボクの実を拾ってきた
カワトンボは大好き。なかなか写真に収まってくれない
コブシ(モクレン科)の実。花は知っていても、なかなか実までは見ていないものです

数日強い風が続いた。ウォーキングも億劫になり、数日ぶりに行ってみたら、あちこちに木の実が吹き溜まりになっていた。植物はもうすっかり秋の準備完了だ。植物は「時節先取り」、まことに手際が良い。わたしのような、計画性のない人間には、まことに敬服すべき存在である。

夏が来れば思い出す

「鬼灯(ほおずき)」  ペン、水彩+CG

夏が来れば思い出す、さまざまなこと。数十年前の子どもの頃のことを突然思い出し、ああ、あれはこういうことだったのか、と(記憶が創作されているのかも知れないが)初めて理解できたような気がすることがある。

当時の自分を客観視できるようになったということかどうか、にわかには言えないが、子どもには見えない「感情」や「関係性」といったようなものが、年を経て、理解できるようになったこともあるだろう。その一方で、子どもでしか感じられなかったことも、たくさん抜け落ちてしまっているに違いない。それが年月というものか。
 見えるはずもない当時の自分自身を、一枚の写真のように鮮明に見ることができるのも、長い絵画の訓練のたまもの。これもまた年月か。

あとひと月もしないうちにお盆が来る。特別な思い出というものはないが、「お盆用の棚を作れ」と両親に言われ、弟と二人で、隣のお墓に作られた盆棚を真似て、それぞれに込められた意味も解らないままに作っていたことを思い出す。弟は毎年、今でもそうやって同じように作っている。
 飾り用の鬼灯は、ちょっとだけ贅沢品でもあり、ハマナスの赤く熟した実を、鬼灯の代わりに紐で吊り下げたりした。他愛のないことを思いだすものだ。