澄んでいること

ビー玉とりんご

透明なものに、なぜか人は心を惹かれるようだ。「宝石」はまあ特別としても、ガラスが玻璃と呼ばれ、宝石以上に珍重されたらしいことは、奈良正倉院のペルシャガラスが今に伝わっていることからもわかる。古代インドあたりに栄えたムガール帝国のムガールグラスにも、決して現代のガラスのように透明ではないが、やや乳白色がかったぼんやりした反透明感にも、えもいわれぬ魅力を感じたことを思い出した。

「透明」と「澄んでいること」は同じではないが、共通したイメージはある。さらに想像をつないでいくと「澄んでいる」と「濾過された」も意味が近づいてくる。濾過された水は美しく、透明であるが危険でもある。栄養分すら取り除かれてしまい、「水清ければ魚棲まず」となることもあり、透明に近い血は死の危険性が香る。

完全に透明なものは目に見えないはずだから、そこに光が反射したり、屈折があったり、ほんのすこしの淡い色があったりすることで「透明」と意識される。それは澄んでいることにつながり、長い時間をかけて「濾過」された水のイメージにもつながってくる。川底の石が見える清流に心を癒されるのは、そういう時間を経た安心感にも依っているに違いない。

澄んでいるものはどれも儚(はかな)い。簡単に汚されてしまう、貴重なもの。なるほど、わたしたちの心の鏡のようなものなんだ。それは純粋でありたいと願う精神とも深くつながっているだろう。大事なものを見るには澄んだ目が必要だ。そうだ、そのことをもっと大切にしよう。

はだか

わたしははだかが好きだ。「ヌード」という意味でも、ストリップ(何も身につけない)という意味でもない。赤ん坊のような「はだか」。その意味でなら、「はだか」を「裸」と漢字で書いてもいいし、その発音も好きだ。

でも、そうでない意味で使われる「裸」は嫌いである。

はだかになるのは難しい。人前でストリップになるのも難しいが、赤ん坊のようなはだかになるのは、もう一生できないことなのかもしれない。どんな赤ん坊も、はだかが一番よく似合う。あのようになりたい、いや、あのようになりたいと思う心を大切にしたい、と思う。

すべすべが良いわけではない。つるつるも不要だ。そんなものより、むしろ鋭いトゲトゲのある方が美しい。刺されたことにさえ気づかないほど繊細な棘、敏感でときに痛々しいトゲもいい。少し鈍く、擦り減ったようなとげも好もしい。窓辺のサボテンたちを見ていると飽きない。

自由・表現とは―ある禅僧のはなし

教室用デモ制作(未完成)

誰も気にせず、好きな時に、好きなことをする、それが自由だ。―「それは違う」と、ある禅宗の僧侶が言う。それは自分にとらわれている。好きな時、好きなこと、それらの多くは一過性、刹那的で、少し待てばどうでもよかったのかもしれない、という類のものだ、と。

自分は朝3時に起きて身の回りのことを始める。億劫でないことは一度もない(=億劫だ)が、あとで考えるとやはりそれが良かったと思えるからそうする。その時、もう少し寝ていてもいい(自由)が、あとで残念に思う。毎日の日課が決まっている。何をするか考えなくていい(思考からの自由)。だから、自分がどういう存在なのか、自分とは何なのか、大きな時間を自由に遣う事ができる、とも。

なるほどなあ、と思う。彼は外国人だが、若い時から「もっと自由に生きたい」と感じて、親元を離れ、国を離れ、仕事を離れて、日本のお寺に来たという。ところが修業では全く自由がない、いや、勝手にしても誰も何も言わないのだがどんどん孤立していく。経本を読むことさえできないのだが、誰も教えてもくれない。孤独になり、国に帰りたくなった。でも「国に帰って自分はどうする?」。―すべては自分から始まっている―だから、あらためて「自分に還る」。そこから世界が変わった、という。

なるほどなあ、と思う。自分に還る―「本当に」自分のやりたいことをやる、刹那的、瞬間的にではなく。そのためにどうするか。―何かを得ようとするのではなく、捨てること、空になることだ―そうだ、わたしも同じアドバイスを頂いたことを思い出した。それであらためて仏教のことなど勉強したんだっけ。
―本当に自分のやりたいこと―それが表現になっていなければ、そんな表現はいずれ「人目を欺く」類のものに過ぎないのかな、と思う。何と言ってもそういう種の表現であればこそお金も名声も得られるのだし―それを捨てる(「諦める」とは違うと思う)ことの難しさ、厳しさ、そして自分の表現のことを想う。