自由・表現とは―ある禅僧のはなし

教室用デモ制作(未完成)

誰も気にせず、好きな時に、好きなことをする、それが自由だ。―「それは違う」と、ある禅宗の僧侶が言う。それは自分にとらわれている。好きな時、好きなこと、それらの多くは一過性、刹那的で、少し待てばどうでもよかったのかもしれない、という類のものだ、と。

自分は朝3時に起きて身の回りのことを始める。億劫でないことは一度もない(=億劫だ)が、あとで考えるとやはりそれが良かったと思えるからそうする。その時、もう少し寝ていてもいい(自由)が、あとで残念に思う。毎日の日課が決まっている。何をするか考えなくていい(思考からの自由)。だから、自分がどういう存在なのか、自分とは何なのか、大きな時間を自由に遣う事ができる、とも。

なるほどなあ、と思う。彼は外国人だが、若い時から「もっと自由に生きたい」と感じて、親元を離れ、国を離れ、仕事を離れて、日本のお寺に来たという。ところが修業では全く自由がない、いや、勝手にしても誰も何も言わないのだがどんどん孤立していく。経本を読むことさえできないのだが、誰も教えてもくれない。孤独になり、国に帰りたくなった。でも「国に帰って自分はどうする?」。―すべては自分から始まっている―だから、あらためて「自分に還る」。そこから世界が変わった、という。

なるほどなあ、と思う。自分に還る―「本当に」自分のやりたいことをやる、刹那的、瞬間的にではなく。そのためにどうするか。―何かを得ようとするのではなく、捨てること、空になることだ―そうだ、わたしも同じアドバイスを頂いたことを思い出した。それであらためて仏教のことなど勉強したんだっけ。
―本当に自分のやりたいこと―それが表現になっていなければ、そんな表現はいずれ「人目を欺く」類のものに過ぎないのかな、と思う。何と言ってもそういう種の表現であればこそお金も名声も得られるのだし―それを捨てる(「諦める」とは違うと思う)ことの難しさ、厳しさ、そして自分の表現のことを想う。

素顔のわたし②-少年 T

チューリップ (CG)

少年 T は臆病ではあったが、同時に残酷でもあった。友達と遊ぶときは少し気後れして後ろでもじもじすることもあったが、一人になると大胆になり、生き物を殺すことも案外平気だった。
 彼の獲物の多くは小動物、いちばん多いのはカエルだった。雪が解けると、どこからともなくあちこちにカエルがモソモソとうごめいてくる。それを手製の弓で射るのである。矢はススキの茎で、周りにいくらでもあった。それをナイフで鋭角に切り取り、緩んできた地面に突き刺すと茎のなかの空洞に泥が入り、先端部だけ適当に重くなる。矢は先が重くないとうまく飛ばないのだ。

不思議なことに、カエルを殺しているという意識は、彼の中に全然浮かばなかった。むしろ正確に矢を射ることだけに意識が集中していた。カエルには恐ろしい敵だが、彼にとってはカエルは動きの遅いただの標的に過ぎなかった。しかもそれは彼だけの遊びではなかった。友達もみな自分で作った弓を持っていて、同じようにカエルを練習台に、熱心に弓の腕を競い合っていたのだった。やがて暖かくなり、カエルの声が田んぼから聞こえるころには、弓のことも射られたカエルのこともきれいさっぱり忘れて、小魚を追うのに夢中になった。
 小魚もまた彼の遊び道具の一つに過ぎず、彼にとってそれは「生き物」ではなく「さかな」という「動くモノ」であった。カエルと少し違うのは、時々は家に持ち帰って食べることもあることくらい。たいていはさかなを捕まえるところまでしか、彼の興味はなかった。捕まえたあと、その小魚をどうしたかさえ覚えてはいなかった。ただひたすら捕まえること。よりすばしこく、捕えることが難しければ難しいほど、小さなさかなたちは彼の興味を駆り立てた。捕まえた小魚の、手の中でぴちぴちと激しくくねる、くすぐったい感触は彼を有頂天にさせた。そしてぬめりの中に光る極小の鱗、うっすらと浮かび上がる斑点の美しさを、美しいという言葉さえ思い浮かべずに感じてもいた。

もう少し大きくなってからは、狙う獲物も大きくなった。もうカエルや小魚は卒業していた。素潜りと魚釣りの時期を過ぎ、アケビや山葡萄も終わって冬になると、T たちは野ウサギを狙うようになった。それは肉も毛皮も確かに有用であり、それを目的に彼の友人たちも雪の中を歩きまわっていたが、彼の興味の中心はやはりそれを捕まえるまでであった。獲物の生態を調べ、その能力を上回る方法で捕まえること。それが T の願いであり、理想だった。ほかの少年たちがウサギ狩りにも飽きて山へ行かなくなるころ、とうとう狐が彼の対象になった。

狐は、彼の相手にふさわしい警戒心と周到さ、そして知力とパワーを持っていた。すぐに彼は狐の能力に驚嘆し、一種の憧れにも近い感情を持ちはじめた。この美しくも優れた獲物を自分だけの力で捕らえたい、その一方でどうか自分が仕掛けた罠を凌ぎ、生き延びてほしい。そんな矛盾した感情を狐に対して持つようになっていった。
 「罠にかかったらどうしようか。」今度は彼も、捉えたあとのことを真剣に考えないわけにはいかなかった。いま彼の狙っているのは、足跡の大きさから考えて、ある程度の大物だと予想していた。おそらく中型の犬くらいはあるだろう。祖父の部屋の長押にぶら下がっていた、自分の身長ほどもある大きな狐の襟巻を彼は思い浮かべた。―あれより大きいかも―そいつが罠にかかったときの、死に物狂いの抵抗を T は想像した。「逃がしてやるのが一番危険で難しい。」彼は何度も頭の中で、うまく逃がしてやる方法をシミュレーションしてみたが、うまい方法が思いつかなかった。鋭い牙で噛まれ、自分も大怪我をする可能性の方が大きい。―手早く殺すしかないが、どうやって?
 獲物の逃げ場をせばめ、足場の悪いところに追い込んでいる以上、自分の足場の幅もぎりぎり、斜めでしかも凍っている。足が滑れば足元の深い淵の中へ自分が落ちてしまう。棍棒で殴り殺すにしても、すぐ頭上には細い枝が網の目のように絡み合っている。―棍棒を振り上げるスペースは無い―彼はその場面を脳の奥の方でゆっくり、精細なビデオで検証するように繰り返していた。

 少年 T のお話はここまで。わたしの夢の中で T は今でも時々獲物を追っているが、もう捕まえる気持ちはないらしい。けれど彼らを追い詰めるまでの緊張感と、それを逃れていく動物たちの本当のカッコよさに、いつまでも夢から覚めたくない思いがある―夢の覚め際にかならず T はそう言うのである。

 
 

Covid-19 に見る、「日本」という考えかた

「Snickers 2」 2020 水彩

新型コロナ・ウィルス(Covid-19)がヨーロッパと南北アメリカ大陸、さらにオーストラリア、アフリカへと広がりつつある。アジアでは中国と韓国がどうやらピークを越えたようで、台湾、シンガポールが制圧に成功するかどうかの瀬戸際。他のアジア諸国では日本同様、感染が拡大しつつあるというのが大勢のようだ。ウィルスの国内感染を防ぎたいのは世界各国共通だし、入国制限などの具体例では日本もほぼ各国と横並びだが、そのプロセスにおいて日本は世界と考え方が全然違う国なのだな、とつくづく感じさせられた。

安倍首相は「専門家の助言を聞いては『いないが』」(自分自身の判断だ)と述べるのに対し、私の見る範囲内に限るが、各国の首相、大統領は「専門家の意見を(常に)聞きながら」と、「専門的・科学的知見を前提に」国民に訴える姿勢が極めて対照的だ。確かに、思い起こしてみれば「私(安倍)は『森羅万象を統括する』総理大臣でありますから…」と国会答弁で幾度か堂々と応えているから、そういう姿勢もなるほどとはうなづける。「森羅万象を統括できるならそもそもcovid-19など出すな」とは誰しも思うけれど、虚言癖、誇大妄想、記憶喪失という重い症状だといわれる首相の言葉などに、いまさらこだわっても時間の無駄だ。

けれど、安倍氏をナメてはいけない。彼は政治の「天才」だと、私は思う。ヒトラーに極めて近い人間性を持っていると私は感じている。天才はたいてい「純心」だ。「純心」とは、自分だけがこっそり儲かるような行動をするとか、そんな世間的な打算が無いことをいう(選挙は別)。祖父の岸信介の願望達成に命を懸ける純心さ(皆のためになると思い込む宗教心に近いもの)、それが、元々ポリシーなどなにも無い多くの単純・無心(≠無垢)な自民党議員をまとめる力にもなるのだろうし、「特攻精神」などを崇高と賛美する一部国民の軍国主義的な美学(宗教)を代表できるのだとも思う(念のため断っておくが、旧日本軍における特攻隊隊員がそのような単純な精神の持ち主だけだったなどとは、私は露ほども考えていない。むしろ「特攻精神」なるものは特攻せずに済む人々による、単に煽動的な言葉だと考えている)。

そのような美学(宗教)を共有する人々には、日本を「ヤマト民族」独自の「当たって砕けろ」の特攻精神だけでcovid-19にぶつけ、しかも「必勝する」という信仰があるのだろう。科学的裏づけを二の次にしたがる、そうした神がかり的な発想が「いさぎよい」犠牲を国民に強い、そのあとを「自己責任」と丸投げする安易さにつながっているのではないか。