やさしい秋

ほんのりと、やさしい味のかぼちゃ。茹でただけ
写真を撮る前に食べてしまうところだった。デザートの梨までは手が届かなかった

やさしい味のかぼちゃができた。かぼちゃは年中よく食べる。こくこくしたもの、味付けしたかぼちゃ、少しべちゃっとしたものなど、産地や調理?の仕方などによって味わいはずいぶん変わる。どちらかというとわたしの好みはコクコク派だが、どれでもまあ、嫌いということはない。基本的にかぼちゃ好きである。

今回はあっさりした味で、なんにも手をかけていないという。その上にヨーグルトをかけて食べるつもりでいたそうだが、わたしはそのまま、かぼちゃだけで食べた。北海道産というわけでもないだろうが、これはコクコクしていない。味も濃い方ではないが、水っぽいというわけでもない。人によっては物足りない味かも知れないし、わたしもそんな気もしないではなかったが、適度な柔らかさと、ほんのりした甘さが、この夏の厳しい暑さに疲れ気味のわたしにぴったりきたのかもしれません。

暦の上ではとっくに秋なのに、気温はまだ真夏のまま。平年の最高気温が、今年の最低気温に近いのだから秋など感じられるはずもない。そうなのだが、スーパーへ行けば栗が出ている、トウモロコシも出ている、梨もサンマももう食べた。外を歩けば石榴が実をつけている。やっぱり季節は秋へ秋へと進んでいるのである。

美味しい秋、は普通だが、たまたまやや出来損ないの茹で方が、わたしに「やさしい秋」をもたらしてくれた。強さや激しさより、「適度」の良さがすこし分かってきたのかもしれません。

素手

「かぼちゃ」水彩

何をやっても遅い。いくら早くやろうとしても、気持ちが焦るばかりで、目的も目標も方法もいちいち分からず、そのためのスピードもまたノロく、人の背中がどんどん離れていくばかり。夢か現実か、そんな気分ばかり。秋のせいではない。

そんな気分はきっとわたしだけではないと思うけれど、皆口に出したくないのだろう。そんな思い気分を加速するだけだし。

立ち止まることができない。前回「Take your time」で「自分の時間」について書いた。いくらか前向きな気分で書いたが、ふと自分の足元を見ると地面さえないことに気づく。自分はどこに立っているのかが分からない。自分のもっているもの、こんな状況を変えられるものは何だろう。何にも持っていない気がする。失くしたのか、それともはじめから持っていなかったのか。

Take your time – 自分の時間

「園芸ショップにて(エスキース)」水彩 2023

自分の時間はどのくらいあるのだろう。これから何年生きるかによるけれど、現実には誰も自分の寿命を知ることができないわけだから、計算などするだけ無駄という気もしないではない。それでも、そろそろラストを考える年齢になってくると、“終了式” の段取りがしたくなってくるものらしい。

あと10年、というのがわたし自身の(単純に感覚だけの)寿命予測。睡眠や体調不良による“何もできない” 時間がその3分の1、少なく見ても3年半。仕事など生活のための時間がやはり正味で3年くらい?わたしには何の蓄えもないからもっと長期間必要かも知れないが、その時にはもう体が動かないだろうから、たぶんそんなもの。

それ以外の時間、絵を描いたり(そんな余裕があるか疑問だが)、文章を書いたり本を読んだりする時間、たまにはゆっくり美味しいコーヒーを味わうとか・・それが3年くらいだろうか。それで10年になる。ただ、この「3年」は正味の時間だから、仮に何かを研究するつもりなら、ちょっとした小さなまとめくらいはできるかもしれないほどの時間。絵なら、自分の本当に残したい1枚くらいは描けるかもしれません。そんな絵が出来たなら、自分としてはそれで十分で、そのまま死んでもいいと思っています。たぶん周囲も喜んで見送ってくれるでしょう。でも、病気などしたらその真逆。迷惑をかけるだけで終わってしまいます。それだけは気をつけねば。

あらゆる意味で、ラストチャンス。失敗してももう後がありません。来月、銀座でグループ展に出品しますが、ちょうど10回の区切りを迎えるので、それを最後にもう銀座や上野、六本木などへ出品することはやめるつもりです。せいぜい埼玉県内だけ。といって、「まなじりを決して」というほどの切迫感でも悲愴感でもなく、やれるところまでやる、中途半端で終わるならそれはそれでよし、という平易な気持で残り10年に望みたいと思っています。自分の残り時間を、自分のペースで最後の消費をする、ティク・ユア・タイムと自分に言い聞かせながら。自分の時間を他の誰かに残せるわけでもないし、ね。