桜を描くのは難しい

       「桜のある風景」 水彩

桜に対する日本人の “熱愛” は “超” 特別だ。その一種の「異常性」が普通の日本人(わたしも含め)には正常と感じられている、という異常性の出発点は「小学校の桜」にあるのではないか、と多くの人が述べている通りだと思う。わたしの知る限りでも、校庭に桜が無いという学校を見たことがない。現実空間には存在しない「デジタル小学校」のようなものがあったとしても、きっと画面のどこかに桜が入っているに違いない、とさえ思う。
 さらに花のタイミング。幼少期の大きなイベントは多く学校に関わることが多い。その中でも入学、卒業は特別な意味を子どもにも感じさせる。その背景にいつも桜がある。東日本大震災は3月だった。震災直後の満開の桜は、その清々しさゆえに喜びよりもむしろたくさんの日本人の涙を誘ったものだった。桜は単に花であるだけでなく、深い心情を伴った象徴でもある。そのことが、モノとして桜を描くことをさらに難しくする。

そういう意味で、ほぼ100%に近い人が、一度は桜を描いた(描かされた)記憶がありそうだ。そしてその90%以上の人が、(ピンクをただ塗りたくる以外に)どう描いたらいいか、悩んだ経験を持っているに違いない。わたしも小学生の頃に感じたそのコンプレックスがずっと尾を引いて、今も解消できずにいる。そのうえ、風景としてはあまりにも普通過ぎて新たな視点を見出しにくい。桜への熱愛に比して、公募展などでは桜の絵がむしろ少なめなのは、きっとそういう理由だろうと思う。

「失敗」について

3/29のブログに同じモチーフの「春の川辺」を載せました。この2枚はそれとは別に描かれたものです。上の絵が一番最初、下が一番最後です。サイズも比率も、よく見れば構図も少しずつ違っています。そもそも元の写真には遠くの家などありません。

一枚目が失敗だったから、2枚目、3枚目と描いたのかというと、それは違います。それぞれに、気に入ったところとそうでないところがあります。だから描くのです。気に入らないところを直す、というのともちょっと違います。それはそれ、これはこれなんです。もう少し良くしようという志向より、こうしたらどうなるか、こういう感じを描けるだろうか、という自分自身への「興味」に近いかもしれません。

同じものを何枚も描いて飽きないか?と言われそうですが、そもそも同じものを描いているとは感じていないのです。川とか木とか土手とか、同じ要素を使っている以外は別の絵を描いている、だから飽きないのです。逆に感覚にピンとこない時、それが最初の一枚でも、 “飽きる” わけでなくとも、途中で興味を失ってしまう時もあります。
 何枚も描けるときは、きっと何かがわたしの感覚に触っているのでしょう。それが何なのか、描いてみなくては分からないのです。

ペンの味わい

             「ヨットハーバー」 ペン・水彩 F4

長く描いているペンスケッチだが、最近また自分の中でちょっとした「マイブーム」になっている。小サイズのスケッチブックに始めると止まらなくなる。先日は一日でスケッチブック一冊(17枚くらい?)を描いた。まだ、これくらいできるんだなーと、ちょっとだけ自信回復した。

野外スケッチでは過去に一日で100枚くらいは描いたことがある(一週間で500枚弱)。写真を撮るよりスケッチの方が早い、などと自信満々だった頃の話。早朝から日暮れまで、一か所から前後左右を描き、歩いたり走ったりしては描き、車で移動しては描きのスケッチ三昧。このときの記憶は今でも鮮明だ。若かったし、楽しかったなー。今では走ることなど思いもよらぬ。

ペンの良さは、何といっても、かっちりした線の強さにある。鉛筆のような柔らかさ、繊細さは望めないかわりに、彫刻の鑿あとのような「一回性」の潔さがある。いちど紙にペンを置いたら、消すことはできない。それがペンの “清潔感” にも繋がっていると感じる。(「消せない」ことが欠点だと思う人には、「消せるペン」というのも売ってます)。鉛筆の柔らかさと、ペンの強さ。一枚の絵の中ではなかなか併存できないのも面白い。