手を動かしていさえすればいい

折り紙のキャンディボックスと江戸切子のグラス  ペン

今日は22度もあり、夏日?と思うほど暖かかった。夕方ウォーキングする時間がなかったので、夜になってから少し歩いたら、汗をかきそうで時どき “冷ま” さないといけなかったほど。でも、明日は8度も気温が下がるというから用心だ。

ここ最近スケッチがなんとなく面白く、時には日に何枚か描く。手軽に、構えずに描けるから、一種の暇つぶし感覚になっている。それに、手のリハビリ。毎日少しずつ手指のこわばりも強くなってくるのを感じるし、機能も落ちてくる。眼も、脳も一緒だから、まとめてリハビリできるからスケッチはお得だ。短ければ30分、長くても1時間もかけないから、心理的な負担もなく、かえって解放感があるから続けられる。むしろ、そちらにハマり過ぎるのを心配しなくちゃならない。

考えてみると、こんなことできる時間は一生のうちのほんの “一瞬” 。大事に味わいたいんだ。

藤澤伸介個展から

個展会場にて。手前が藤澤さん
ワイヤーによる造形、「JAZZ」
キリンビールの箱からだろうか、麒麟のプリントをコラージュしているのも藤澤さんらしい
「ベランダの夜の雨」

東京・神楽坂のギャラリーAYUMI で開催中(11/14~19)の「藤澤伸介個展」に行ってきた。「走り出す色 笑い出す形」と題した展示だが、―切り紙とワイヤーアートで音を視る―と副題がついている。色、形が「音」で繋がっているコンセプト。

作品を見ながらつくづく感じるのは、技術は練習次第である程度真似ができるけれど、センスというのはそれができないものだ、ということ。水彩絵の具を塗った紙をカットし、既に貼りつけられたそれらの上にさらに大胆に重ねていく。言葉でいうとたったそれだけのことでさえ、誰も同じ(印象の)ものを作ることができない(それは全然マイナーなことではないけれど)。

なぜできないかと言えば、そこに藤澤さんのこれまでの人生(のすべて)が重なっているからだ。―カッターナイフの尖端があるところで止まり、曲がり、断ち落とす。どこに貼りつけるかはほとんど直感以外にないが、偶然ということもあり得ない。
 一本のワイヤーにしても、彼の彫刻家としての経験以前に、自分自身の身体的リアクションと一体になった素材の選択眼というものが、かたちと同時にある。そんなふうな感覚(五感)に素直になる(なれる)ことに作家の感性の柔らかさをわたしは感じる。藤澤さんの個展を見るたびに、毎回その素直さに衝撃を受ける。そして、まだ多くの人に知られていないことをさらに惜しむ。

表情

     「少年のかお」   ペン

子どもと言えば、年齢にもよるが「可愛い」から始まって、「あどけない」「無邪気」「輝くような」「エネルギーに満ちた」等々の “前向き” な褒め言葉の羅列に埋まっている。可愛げが無い、疑わし気な、陰気な、反抗的な、などと言う言葉を子どもに見つけ出すとき、「子供らしくない」という一方的な大人目線で、それだけで低評価してしまいがちだ。

映像などでガザの子どもたちの表情を見るとき、小さな子どもにも複雑で大きな不安や心の揺れのあることが、誰にでも見て取れる。ガザのように巨大で直接的な圧迫でなくても、例えば母親がちょっと病気で寝込んだりすると、子どもの顔にもすぐに影が現れる。(子どもは)無邪気で可愛いだけと思いこんでいるステレオタイプの大人の方が、よっぽど無邪気で可愛いと、子どもの方が呆れているかもしれない。

表情をできるだけ消し去り、たとえば素朴な機械式ロボットのようだったり、目も鼻もない、卵の殻のような顔を描いても、見る人はそこに(無意識に)「表情」を読み取ろうとするものらしい。表情を読むことが、人類にとって生きるために必要だったからだ、とも言われているが、たぶんそうなのだろう。

好きな顔、嫌いな顔、誰にも顔に対する自分好みの階級?がある。それは時として対象の顔に自分を鏡のように映しているせいなのかもしれない。一本の輪郭線を修正するとき、微かに混じりこむ「好み」のようなもの。そこにスケッチを描く人のなにかが、きっと写されている。