埼玉近美へ行ってきた

倉田白羊のスケッチ
文谷有佳里「なにもない風景を見る(部分)」

久しぶりに最高気温が30度を下回るというので、ちょっと遠いが、歩く距離はあまりない、北浦和の埼玉県立近代美術館(埼玉近美)へ行ってきた。

一歩外に出れば、そこには何かが転がっているものだ。埼玉近美のMOMAコレクション展は「旅」がテーマだったらしい。上の絵は明治の画家倉田白羊の旅先でのスケッチ。小さな、ハガキを変形したくらいのサイズのスケッチブックというか、もっと薄手の、クロッキー帳のようなざら紙に描いてある。それ自体がすでに一枚の完成作といってもいいくらいにきちんと描いてある。画家に限らず、芸術家というのはどうしてみんなこうも律儀なほど作品に対して誠実なんだろう。まず、そのことに胸をうたれる。

下の絵はここ数年のコレクションらしい。文谷有佳里(ぶんやゆかり)氏の「なにもない風景を見る」の部分。全体を見てもこんな感じだから、具体的に何が描いてあるのかはよく分からない。よくわからないのに、なぜか非常に具体的なものばかり描いてあるように見える。直線はきちっと(もしかしたら烏口かなにかで?)製図のように、というより製図されている(紙がケント紙だったかどうかまでは確かめそこなった)。
 さらに見ると、それぞれ思いつくままに(多分そうだろうけれど)描いてあるはずなのに、フリーハンドがただのフリーハンドではない。時には雲形定規か何かを使ったようで、いい加減な線というものがない。線の太さもあえてできるだけ均一にしているようだ。
 わたしたちが普通に見る都市の風景は、見た目には一見雑然とはしているけれど、そこに見える建築や道路、橋などの構造物、さらにそこを走る車や電車や広告看板でさえ、それぞれきちんと計画・設計されたものばかりでできている(はずである)。それらのすべてが、その過程で一度は製図されなかったものなど実は一つもなかったことに思い至る。そんな「計画づくめの風景の現実(の風景)」を見ているような気がする。

あえて見たいと思わせるものなど一つも描かずに、確かにこれは現代の風景を見せられているんだなあ、と感じさせる。(入場料200円は安いよ。たしか12月中旬までやってる)

ま、いっか Ma, ikka

このくらいで「ま、いっか」

わたしの苦手な言葉、「ま、いっか」。「ま、いっか」とはご存知の通り、「とりあえず、OK」のこと。

それは自分に対しては「甘やかしの言葉」。他人に対しては?言いようによっては「しょうがねえやつだなー」って意味にもなるから注意が要る。基本的に相手を認める言葉だから、なるべくは使いたい言葉だが、時にはつい要求が先に出てしまう。「もちょっと、やれるんじゃない?」とか。

決して相手を馬鹿にしているわけではない。むしろその潜在能力を高く買っているからこそ要求もしてしまうのだが、実は、それは言ってはいけない言葉なのだ。たとえそういう意味だと相手が分かってくれても、である。とりあえず、「ま、いっか」。それが大事。

わたしは毎日自分を甘やかしている。毎日「ま、いっか」と自分に言っている。本当はわたしの大得意な言葉なんだ。それが他人に対しても同じように言えないということは、自分に余裕がないからだということも分かっている。でも、それも「ま、いっか」。すぐそれを口にできるよう、毎晩唱えてから寝ることにしようっと。マイッカ教の始祖になる?

冷めたコーヒー

スケッチ

前にも書いたかもしれないが、ライフルでの狙撃の世界記録(忌まわしい記録ではあるが)は3800m。現在進行中のウクライナ戦争で、ウクライナのスナイパーがウクライナ製のライフルを使い、ロシア兵を狙撃したとウクライナ保安庁(SBU)が主張し、すでに世界中に知られている。

軍や軍事関係者、武器製造メーカーなどにとっては実戦での記録だから、オリンピックでの100m走の世界記録などよりはるかに有用な記録であるに違いない。わたしが想像するのは、撃たれたロシア兵がその時なにを考えていたんだろう、ということ。戦争だから、いつどこで撃たれるか分からないという覚悟を家族の中には置いてくることができたにしても、彼自身にとって覚悟などという言葉には何の意味もないほど遠くから、現実の死はやってきたに違いない。

同じくウクライナ戦争での話題で恐縮だが、ウクライナに供与されたF16戦闘機が墜落した。味方の誤射によるものだと公式発表があった。このパイロットは非常に優秀かつ人望の篤い人物だったらしく、ゼレンスキー大統領がこれに激怒し、即日空軍司令官が解任されたという。

数日前、わたしの叔父が故郷で病死した。自分に何が起こったか知る由もないロシア兵と、少なくとも必ずしも生還できないかも知れないと思いつつ出撃したはずのパイロットと、家族に看取られつつ亡くなった叔父との、それぞれの死の意味が、わたしには解らない。死には意味などなく、単に「死」なんだろうな、と今この瞬間は考えている。
 家族の中で、いちばん離れて暮らしているのに、なぜか私だけが祖父母、両親の死にたった一人だけ立ち会った。不思議な死の縁。