絵画講座の廃止(2)

アーティチョーク(部分) F6 2011

10年も通ってきている女性がいる。彼女は夫に先立たれ、今は一人で暮らしている。家には誰もいないから、夜は誰とも話さない。もちろん周りに人は住んでいて、日常のあいさつ程度はするだろうが、絵の話などする相手ではない。講座に通って、共通の趣味の人と少し深い話が出来る喜び。それが無くなると寂しい、と彼女は言った。

けれど、個人的にはもう講座は無くなるものと考えている。私自身にとっては経済的なことやスペースの問題などいろいろ悩ましいことがあるけれど、或る意味で清々すると言えないこともない。

絵画講座はプロの養成所とは違う。技術的なアドバイスを通して、一歩深い世界を垣間見、豊かな趣味のすそ野を広げてもらうことが理想だと思う。その際大切なのは、講師の能力よりお互いの信頼関係だとも思ってきた。けれど、これまでいろんなことがあり、そうした信頼関係にも方々でひびが入り始めている。私にとっては講座の廃止より、そちらの方が何倍も気が重い。内容自体は個人教室ででも代替できるが、気持ちの方はそう簡単には割り切れないからだ。

廃止までどうなるか、廃止以後をどうするか。もっとクールで、もっとリアルな頭が必要だが、残念ながらその能力は徹底的に欠けているらしい。

リズムについて

風景 F4 水彩 2011

最近出かけることが少なくなったから、相対的に制作時間が増えてきた。これは歓迎すべきことである。画家には制作のリズムが欠かせない。それを忙しさの中にも維持しなければならないが、いつの間にかみずからそれを壊してしまっていたことが、あらためて見えてきた。制作時間が増えれば自然に自分のリズムを取り戻すことができる。

誰だったか忘れたが、人間とは過去の塊だ、という意味のことを言った人がいる。過去とはあらゆる可能性の廃棄処分場であり、今とは単に偶然とか運命としか呼びようのない「可能性の幻」だ。それでは考えたり、努力することは無駄なのか?― 実はそうなのである。動物は決して努力などしない。努力とは人間を動物から分け、自らが人間を含む他の動物から搾取する存在になるために考え出した政治的な嘘の美名でもある。ところが体のリズムはその嘘を簡単に突き破り、私たちもまた動物そのものである事実を否応なく突きつけてくる。

それは自分に嘘をつかず、過剰な欲望を持たず、真摯なる「無目的(無自覚という意味)」に生きるという、動物のごく普通の姿である。もっとも、これではあまりに素朴な人間・動物観だと言われるかも知れないが、どうも原点はその辺りにあることを忘れ過ぎているような気がしてならない。  2011/7/3

絵画講座・陶芸講座の廃止

Untitled (part) f15 Mixed-medium 2011

今年度一杯で絵画と陶芸の講座が廃止になると、受講者全員に大学から通知が届いたようだ。ほとんどの人は寝耳に水で、ショックを受けた人も少なくないと思われる。

実は講師が廃止の通告を受けたのは6月の初め(第1週から2週にかけて)。意見を求められたのではなく、決定事項を告げられ、了解を求められただけだった。当然のことながら詳しい理由説明と、しかるべき手続きがなされるべきではないかと反論したが、結局決定は上からの指示であり自分は詳しいことは知らない、知っているとしてもそれをこれ以上説明する必要はない、ということだった。納得はできないが聞くだけは聞いたことにして、とりあえず考えもまとまらないので、発表はしばらく待って欲しいと伝えてその場は終わった(発表の件は翌週撤回した)。

いつ、どういう形で受講者に伝えたらいいか、大学内の別施設を使って講座を独立した形でできないか等、絵画・陶芸の講師間で何度か話し合いが持たれた。その間、なんとなく廃止の件は伏せることになってしまったことをここでお詫びします。講座期間中に責任者から直接話があるものと思いこんでいたこと自体も今では甘い考えだったと痛感している。最後の2クラスだけ、自分の口から告げることができた。

絵画には基本的に部屋さえあればいい。プロのアトリエの多くは決して小奇麗で上品な場所ではない。多くは戦いの場所であり、作業の場である。夏は40度、冬は手も凍えそうな、冷暖房の無いアトリエもたくさん見てきた。それでもスペースさえあれば作品はできるのだが、受講者の皆さんにそれを言っても始まらない。それに、それでは苦痛ばかりで楽しくない。絵画講座の廃止が言い渡された以上、個人の絵画教室として再出発するつもりだ。大学のようなゆったりした環境は他では絶対臨めないかわり、もっと弾力的に外に出たり、見学会をしたり、各種のイベントなどこれまで大学ではできなかった楽しみ方をしてみたいと考えている。その意味では厳しさの中にも、新たな可能性もあると感じている。   2011/7/1