思い出すこと

 

神田ニコライ堂 水彩 2010-12

テンペラをやり直しながら、ふと思い出した。かの油彩画の巨匠ルーベンスは白亜地(ジンクホワイトを膠で塗った下地。吸水性がある)に、初めは卵メディウムとグラッシで、つまり殆どテンペラの混合技法で下描きを施し、その上を油彩で仕上げたということ。ルーベンスの絵は同時代の他の画家より、たとえば黒にしても一段深く、他の画家の黒が灰色に見えるほど引き締まっている。その違いはどうもこの卵メディウムと透明な油の層(これをグラッシという)、水と油の使い分けに秘密が在りそうだということだった。

水彩のような感覚的な画材と違い、油彩は一種化学的、実証的な側面がずっと大きい。画材の性質をよく呑み込んで使えば、狙い通りの効果になることを証明しているのがルーベンスだ。けれど、一方ではそれに反するような使い方が、結果的に成功の鍵となっている絵も少なくない。気合いで成功させてしまう絵と言えばいいのだろうか。気合だけではまともな絵は描けないと思う。が、気合いが無いと絵が生きてこないというのも確かではないか?20年以上前も、そんなことを考えていたのを思い出した。

強大な台風6号(久々に元気な台風だ)の影響の雨が朝から断続的に降っていたが今は止み、涼しい風が入ってきた(埼玉県にも土砂災害の警報が出始めた)。明日は台風が来そうだ。  2011/7/20 1:15am

テンペラをもう一度やり直し

栃木蔵の街(こうらい橋) ペン  2011

川越・ギャラリーユニコンで「坂谷 和夫」個展を見た。非常に素晴らしい個展だった。これまで何度か坂谷氏の個展は見てきたが、会場が広い分、余裕ある大作がとても見ごたえがある。作品上の疑問も少しあったが、作品を前に作家の話を聞き、過去の作品も見られたことでそれもほぼ解消した。なにより作家のポリシーに揺らぎがなく、その鮮明な立ち位置に感銘をうけた。久しぶりにいい勉強になった。31日まで。

最近数年ぶりにテンペラをやり直している。ここ数年テンペラを描かなくなったが、もともとテンペラを捨てたわけではなく、マチエールや、環境問題との兼ね合いから、アクリル、アキーラとの相性を探る都合上、アクリルその他の画材研究をしていたからだった。ある程度その方向での目途はついてきた。今度はそれらの総合を目指して再びテンペラに戻ってきたというわけだ。

それにしても数年のブランクは酷い。画材の感覚が全然手についてこない。20年以上やってきたのにコロッと完全忘却している感じがあって、戸惑う。それでも年末までには何とか大作まで漕ぎつけたい。それにしても暑い。体力・視力ともに落ちているが、何とかして研究を完成させ、今より自由な扱いが出来るようになりたいと願っている。

 

モヤモヤのこと

人形  F4  水彩  2011

久しぶりの銀座でのグループ展が終わった。一年ぶり。最近は殆ど発表しなくなった。発表できなくなったというのが実情だ。描けなくなったというのはさらに真実に近い。

描けなくなった理由はいろいろあるような気がするが、一番は何と言ってもモチーフと画材を一度に換えた変えたことだ。モチーフを換えたといっても、自分なりにはそうは思っていず、そこにたどり着いたのだと思っているが、人の目には「あ、また換えた」とかんじられるらしいが、私の場合、同じモチーフがある期間を措いて繰り返し現れてくる。これは意識してやるのではなく結果的にそうなのだ。でも、また換えたのかという言葉は、いかにも一回限りの思いつきだと言われているようで案外につらい。

モチーフは画家にとって極めて重要だ。絵はただ描けばいいのではなく、一つの思想表現でもあるから、それを現わすのにふさわしく、感覚的にも適切なものでなくてはならない。私の場合、モチーフはふさわしいのだが、表現的には今一つしっくりこない。もっと慣れることも必要だし、構成法にも問題はありそうだし、他の問題も含め、その辺がモヤモヤと解決できずにいる。

描けない、発表できない理由はそのモヤモヤ未解決のせいだ。それがある程度見通せたらパーっと十歩くらいは前に行くだろうという予感はあるけれど、未だに予感のままで数年たっている。