アンスリューム

アンスリューム 水彩F4(部分) 2012

最近またパソコンが不調だ。昨年暮れにかなり大がかりな交換をしたのだけど。

これまでは不調の時はうまく対処できず、しばらく放っておく。すると何故か(今のように)機嫌を直してくれたりする。デジタルだから機嫌なんてある筈もないが、あんがいデジタルは見せかけで、実は液晶画面の裏で小人たちがせっせと働いているのかも知れない。特に給料も払ってないからちょっとストライキを起こしているのかも。だとしたら他の、パソコンを駆使(酷使)している人たちに比べたら、君たちは寝ているようなものだよと言ってやりたいが、コンピューター言語というものを知らないから、彼らとの交渉はできないのだ。

小人はせっせと働いているが、自分が何のために(あるいは誰のために)働いているかを知らないのだった。私も(小人たちに)給料を払わずに済ますためには、これ以上は口を慎んだ方がよさそうだ。なにしろ彼らは、この液晶画面の裏側から直接覗けるところにいるのだから。

アンスリュームにも実にいろいろな種類があり、それも原種に近いものまで店頭で売られているのに驚く。私の好みでいえば、原種に近いものほど野性的で(当然か)好きだ。このアンスリュームもそう。まず色の黒いのが良い。白人の青い瞳より、黒人の黒い瞳の方が好きだ(何の関係も無いが)。暗い森の中の黒い花、暗い夜の草原を疾駆する、カモシカのような足首の黒人の男女は美しいイメージだと思うのだが(これも関係ないか…)。

余った時間 / Spare time

戸口のヌード / Nude front of the door

世界中で「テレビを見るなど、ぼうっとしている」時間は、集めると一年で一兆時間になるらしい。その時間をネットでつないだら創造的な時間になるのではないか、というような記事を読んだ。確かに、一兆時間という天文学的ともいえる時間が、無駄に流れてしまうならばいかにももったいない。もっともな提案だという気持ちになる。

1609年にケプラーが、太陽系の惑星が太陽を中心とした楕円軌道を描いているとした論文を発表したとき、それは当時の社会にとってどんな意味を持てたのだろうか。400年後の現在から見ればいかにも重要で、その後の天文学に偉大な貢献をしたことは間違いないが、当時の人々がそれを創造的だと評価できたかは疑問だ。仮に、もしもケプラーがその法則を発見する直前で亡くなったとしたら、ケプラーが考え、計算に没頭した時間は無駄な時間と呼ばれてしまうのだろうか。

「テレビを…」についてケプラーまで飛躍しすぎた。一兆時間をネットでつなげば凄いことが出来るかもしれないし、単なる一兆時間の烏合の衆で終わるかも知れない。ただ、みんなが「ぼうっとする」時間を捨てて一斉にネットにつながったら、確実に創造的な何かが抜け落ちてしまうことだけは間違いない。ヌードを描きながら、全く別のことが突然頭に浮かぶことだっていくらでもあるのだから。

 

 

天使と悪魔が同居する / Angel lives with Devil

東通・岩屋の風力発電/Air driven generator

下北半島・東通村、岩屋地区の風力発電の風車のスケッチ。津軽海峡を見下ろす台地状の山の上に、現在の日本で最も集中的に同目的の風車が立ち並んでいる地区だ。福島原発事故以来、急に脚光を浴び始めた「自然再生エネルギー」の象徴でもある。ここから南に十数キロ、そこには今や悪の象徴とされつつある、原発(Higashi-dori Nuclear power plant)がある。東通村はいわば「天使と悪魔の同居する村」だ。

先週ある本を読んだ。「森林飽和」(太田猛彦、2012.NHKブックス)。太田氏は、「自然は自然のままにしておくのが一番良いという考え方」を捨てるべきだと言う。里山の「大きな木を伐ってはならない」という考えを否定する。「日本の森林は既に飽和状態にあり、この飽和状態を放置すること自体が新たな自然?災害を招く」から。現在の感情的な自然志向の高まりに、ある意味で水を差すようにも見えるが、実際に山や海岸をスケッチしながら歩くと多くの点で納得がいく。

そのような巨視的歴史的な目でエネルギー問題を考えると、いきなり原発か自然エネルギーかの二者択一を迫ることの危険性が感じられる。「天使と悪魔の同居する村」は木を見て森を見ない、現代日本の思考の縮図とも言えるのかも知れない。