口癖にしては重い言葉 / Wards to feel bad

ウミネコ 5   Seagull 5
ウミネコ 5   Seagull 5

昨日に関連する。「頑張る」について。頑張る=努力と言って良いと思うが、そこには何かしらそれに見合う目的があるはずだ。目的のない頑張りは無意味であり、あり得ないと考えるのが普通だが、世の中は必ずしもそうではない、どころか少なくとも日本ではむしろそちらの方が案外普通らしい。

東日本大震災のあと「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」というスローガンを至るところで見た。しばらくして「何に対して頑張ったらいいか分からなくなっているところに、頑張れと言われるのは辛い」という声が、どこからともなく聞こえてきた。そうだったのか、と思った。カメラを向けられるたびに、応援してくれる人々に気遣いして「頑張ります」と、健気にも笑顔で手を振っていた人々がどれほどいたことだろう。東北だけでなく、熊本しかり、広島しかり、その他人災、自然災害を問わず、多くの被災者が少なからず同じ思いを繰り返しているに違いない。

元気よく外で遊ぶ子は良い子だ。家の中で本を読むことの多い子は親が心配する。そのくせある時期が来ると一斉に「外で遊んでばかりいて!」と叱り、「誰々さんは家で本をよく読むらしいよ」と羨ましそうに、かつ皮肉を込めて子どもに語りかける。親って勝手な生き物だと、子どもはよく知っているからなまじ反論などしない。子どもの方が大人だ。

子どもは親元を離れるまで、何万回「頑張り」を求められるだろうか。もちろん大人になっても、その身が灰になるまでは言われ続けるのだが。「頑張れ」は便利すぎる言葉だ。口に出すときは挨拶程度の軽い意味に過ぎないのだが、逆に自分が言われる時は「そんなこと言ったって」と(自分としてはもう目一杯頑張ってるんだけど)と続く言葉を飲み込む重い気分は、私も日常的に経験しているはずなのに、つい使ってしまう。

「頑張る」ことは、その心の内側に必ずある種の「忍耐」を強いている。その頑張りが逆(悪)用され、大学生のブラック・バイト(アルバイト)の温床にもなっているという記事も、どこかで読んだ。これから東京オリンピックまで「頑張れ」の声はもっと大きくなっていくに違いない。せめて自分だけでも、それに替わる言葉が作れないものか、と探している。2016/9/17

椅子について / About chairs

一隅 At a coner
一隅            At a coner

アトリエには4脚の椅子がある。一つはアトリエの隅にあるパソコン専用。一つはほぼ棚代わりになっている。一つは小品などの制作用。一つは邪魔。どれも安物の、「椅子」と呼べないレベルの椅子ばかり。

良い椅子がアトリエには不可欠だとどこかで思い込んでいた。けれど椅子など不用なのかも知れない、と今は考える。一日中坐りっ放しで制作する習慣を長く続け、一時は歩けなくなるのではないかと不安になるほど腰を傷めて、やっと考え方が変わった。疲れたら、その場で横になれば良い。立って制作する。それが基本ではないかと。

2016/9/15

神のデザイン / God’s quake

赤アリ  A red ant
赤アリ  A red ant

自然(界)の動植物を眺めていると、大きく言えば地球環境、小さく言っても数万年の歴史環境に、あらゆる生き物が、あらゆる方法で実によく適応しているものだとため息が出る。この適応の見事さを、これは神の仕業以外にあり得ない、と考えた西欧中世の人々の感懐を想像するのは少しも難しくない。

当時の人々の心を捉えたのは適応の見事さだけではない。その序列(連鎖)の見事さだ。カエルが虫を感じ、捕らえるまでのメカニズムの完璧さ。その完璧モデルであるはずのカエルはあっさりと蛇に食べられる。蛇の狩猟メカニズムの完璧さ。なのにその蛇は簡単にフクロウや他の動物の餌となる。それぞれの完璧さの入れ子、「完璧さ」のマトリョーシカ。カエルが蛇を食べたり、蛇がフクロウを食べたりしない、序列の「完璧な」不可逆性。自然界はまさに存在する全ての生物の完璧さそれ自体と、それぞれの関係性における完璧性の、二重、三重の完璧博物館だ。それが生命誕生と同時に、「神によって」成し遂げられていた、という中世人の衝撃的発見。

私たちは 彼らの「衝撃の事実」の内容を、テレビやビデオなどで毎日、垂れ流し状態で眺めている。知らない事実に出会っても、へぇ?というだけで、それが本当かどうかなどどうでもよい。とりあえず事実としておかなくては毎日が流れていかないからである。中世のような衝撃など体験していては混乱するばかりなのだ。

でも、ときたまヒマになる人もいる。ヒマになっても、テレビもビデオも見たくない時もある。旅に出る人もいる。そしてアリに噛まれる人もいる。踏み潰すひともいれば、ときたまそいつをシゲシゲと見る人もいる。そして中世の衝撃を自分のものとする人もいる。