上野のパンダと愛ちゃん

卓球の(もう引退したと思うが)愛ちゃんが妊娠したとテレビで報道されていた。その少し前に上野のパンダの出産でひと騒ぎ。「ハッピー」ニュースなんだろうが「何だかなあ…」と、満腹のうえにコッテリと油っぽい肉料理を注文してしまったような気持になった。

彼女も応援してくれた人たちへの半ば義務と考えてツィートしたのだろうし、実際嬉しくて誰にでも伝えたい心持ちもあったのだろう。もちろんそれが悪いわけではまったくない。でも、わざわざニュースで取り上げるべきことかなあ。まあ、それがアイドルってことなんだろうけど。

悪いニュースばかりでは気が滅入るという人は少なくないが、ニュースは娯楽番組ではない。伝える側のお手軽さに辟易する。

 

好きではなくても惰性でもない

ズッキーニ

ズッキーニを続けて描いているが、これが好きだというわけでは全然ない。前に描いたものと比べるために描いている。要するに、一種の研究ですね。

先日「コリンキー」というかぼちゃを見た。生で皮まで食べられるという。美しい黄色が魅力的なので、今度描いてみようと思う。それも、それほど好きでなくても何枚か描くに違いない。

 

何を見ているのか-3

ボス「聖アントニウスの誘惑」のプロセスから

たとえばボス(レオナルド・ダ・ビンチとほぼ同時代ながら、中世の幕を最高の形で引いた人と言っていいだろう)。20世紀のはじめ、シュルレアリストたちによって「再発見」(=賞賛)されたのは、彼らがそれまで戦っていたアカデミックな絵画とのズレからではなかったか。

ルネサンス以後に確立された、アカデミックな世界観から逃れ出る道を探していたシュルレアリストたちに、こんな方法があったのかと「再発見」されたのだ。ボスの絵も広く言えば油彩ではあるが、その単純、原始的な方法はイラストの手法の原点でもある。

ボスの絵がなぜ今新しいかと言えば、現代の絵画、視覚がアカデミックな油彩表現から、より単純なイラスト的表現に向かっているからだ。人類は人工知能の支配下に置かれるのではないかという、近い将来への不安を前に、難しい、職人的技術なしに誰でも描ける手法が、人類の最後の表現にとって必要不可欠だと直感させるからであろう。そう考える人も現実はこれまでの視覚の中に生きている。そのズレが新しさを感じさせている。

しかしボスの作品そのものは、当然ながら「誰でも描ける」ものでないことは言うまでもない。