ポインセチアのスケッチ

ポインセチアのスケッチ

ここ1年ほどスケッチばかりで過ごしてきた。たまには本画を描かないといけないと思いつつ。

サイズの大きな絵を描くと、発想が違ってくる。それは半分は脳の方から来るものだが、半分は身体の方からも来る。サイズが大きいと、筆のサイズが違う。一本の線の長さが違う。そこにかける腕の力が違う。その腕を動かす身体全体の姿勢や動きが違う。そしてそれを見る。―それが発想そのものに関わってくる。

顔の中の緑

顔の習作ー顔の中の緑

よく恥ずかしげもなく、こんな下手くそな絵を見せるよなー、とご立腹の方はしばしご遠慮ください。自分でもそう思っておりますから、見るだけ時間の無駄というものです。

下手くそさに弁解は致しませんが、そんなことより、顔の中に緑を入れるための、法則のようなものが有るのか無いのか、有るとすればそれはどういうものか、がどうしても気になっている。というより、それがゲットできれば、少なくともわたし個人の絵作りの土台が、数ミリだけど、造形的にアップするだろうと直感的に感じているから。

描き方は、まるで昔の高校の美術の課題レベルだと思うけれど、高校卒業後50年以上も経った今では、そこからリスタートしてもおかしくない程の年代差があるだけ、むしろ興味本位になっている。何十年もかけて磨き上げた職人芸が、AIなどという“新参者”に、一瞬にして仕事を奪われる時代。再スタート、などとあえて云うほどガキ臭くもないが、そんな時代感覚を離れて、きっちり理解できないままスルーしてしまったことを、あらためて「きっちり」にすることが、なぜか今さらにして楽しくもある。

すでに周回遅れの身ならば、それが2周だろうと3周になろうと、どうせ大した違いはない。どうせなら、周回遅れを蔑(さげす)む人々がどんな顔をしているか、ゆっくり眺めながら周回するのも一興ではないか。どうせ解った風な馬鹿面の面々に決まっているから、その馬鹿さ加減をジャッジしながら走るのも面白いかもだぜ。

ルーティン

        「顔の中の緑」習作   水彩

ルーティンというのがある。一定の動作を定常的に繰り返すことを言う。朝起きて顔を洗い、ご飯を食べ、歯を磨く。毎日その動作を繰り返すことで習慣化し、そうなることで安定した一日のリズムを作れたり、精神的な安定の基礎になったりする。

朝、学校へ行き、いろいろな科目を勉強して帰宅することも学生時代のルーティン。自分で目標を決め、毎日何Kmか走る、毎日(でなくとも継続して)何かを勉強するとか、職人が一定の時間、同じような作業を繰り返すことがルーティンだが、完全に同じことを繰り返すということではなく、その間に微妙に異なることが入りこんで、変化をつけ、その変化への対応力がついていくことでもある。

そういう風にルーティンというものを捉えると、何かを身につけるにはルーティン無くして不可能だ、という気持になる。「継続は力」とはよく聞く言葉だが、「継続させる力」もまた別に必要だと思う。メインエンジンを起動するためのセルモーターのようなもの、ルーティンにはそういう役目もあるような気がする。
 繰り返すことで、一連の作業、行動が半自働的に繋がっていくようになる。その上で、意識的に何かを継続すること。一見偶然にできたようなことも、掘り下げてみれば、そういったある種の継続が底辺に在って、そこに瞬間的な閃きが追加されてできているようにも思える。結果だけ見れば簡単なことのように見えても、簡単なことなど実は一つもないのだという思いに至る。

逆に考えれば、何か身につけたいものがあるならば、ルーティンが欠かせない、習慣化することが不可欠だということになりそうだ。「継続は力」はたぶん正しい。ただし、ただ続ければいいというものでもないだろう。間違った歯の磨き方がかえって歯を傷めるように、間違ったルーティンは時には害にもなり得よう。正しい磨き方を知ること、それが基礎であり、教育で行われるべきものなのだろう。
 とはいえ、それもまた新しい知見などによって日々更新される。ルーティンといえど、またそれに従って日々更新され続けていく。とすれば、まさにそれは人生そのものといって過言ではないかも、だ。一朝一夕にしては、何ごとも成し得ない凡人も、正しいルーティンをすることでそれなりのことはできるのかも知れないが、それができないから凡人というのだろうね。