子どもは国のインフラではない

退院からちょうど3ヶ月。普段の生活の中ではもう気にすることもない。頭がボーッとすることもなくなったが、物忘れは相変わらず。まだ「忘れた」という「記憶」があるだけマシだ。

森友学園が問題になっている。でも「安倍首相頑張れ」は論外としても、教育勅語にしてもそれは表面のことだ。なぜ、それがいま現れ、なぜ多額の寄付をする人々がいて、なぜ今まで問題になって来なかったのか。それが問題の切り口ではないか。

私たちも気づかぬうちに、(方向は違うが)森友学園のように、子どもをダシに使っては来なかっただろうか。町内の祭といえば「子ども神輿」とか、交通安全の「園児パレード」とか。子どもの可愛さ、元気さを大人の不元気さのサプリメント化したり、将来の人的インフラとだけ考えている部分も少なくないのではないだろうか。

 

文化は広告ではない

デッサン

古池やかわずとびこむ水のをと       芭蕉

俳句という言葉を知らない人でも、これは聞いたことがあるだろうと思われるほど有名な「俳句」。これを例えば英語、フランス語、アラビア語、スワヒリ語にしたらどうなるだろうか?

俳句協会が俳句を世界遺産申請中だそうだ。反対などしない。けれど、俳句が世界に広まって嬉しいとも思わない。「文化」の二律背反的な宿命?が、ここにも必ず現れると思うからだ。

文化にも生きているものと、死んだ文化がある。生きている文化、例えば日本料理はごく最近世界文化遺産になった。嬉しいことだが、その時点から日本料理は日本料理でなくなったともいえる。これが日本料理だという原点など、誰も確認できないからである。基準点のないものはまるで風のように頼りなく、受け取り方は人様々だ。けれど風であるうちはまだ良い。いずれ風が風速だけで判断されるようになるように、本体である「日本」料理も「ケバい」または反動的に「貧弱な」日本料理になるにきまっている。もう誰にも止めることなどできない。

けれど「日本料理」という名前だけは残るだろう。「遺産」とはそういうものであると思えば、腹を立てるまでもない。俳句も同様の道を辿ることは簡単に想像できる。そのうち、英語で書かないと俳句は読まれなくなる。英語に翻訳できない俳句は俳句ではない、となりかねない、という前に、既に英語以外で俳句を読んだことがない人の方が、「俳句人口?」が多いのをご存知だろうか。