年頭の誓い

交叉する影(スケッチ)

そろそろ数え日の時期になってしまった。一年の終わりころになって、やっと年初の誓いを思い出すなんて、誓い違いも甚だしい。

今年は「自分らしい風景画」を1枚は描くぞ。そんな誓いを密かに立てていたが、いつのまにか「描きたい」という願いにすり替わっていた。「願い」では弱い。「誓い違い」であっても、やはり、誓いでなくっちゃ。「来年やろう、来年」。そうやって何年も、何年も持ち越してきた「誓い」や「願い」が積み重なり、その重みでもう胸が押しつぶされかかっている。

年末になると、いつもそんな「出来なかったこと」のオンパレード。私の、ペースメーカーに守られたハートもチキン、チキンと痛む。来年は頑張るけど、その前に今年の残りはどうする??大臣、高級官僚並みの記憶喪失症に、私もなりたいな。

風景

公園から (水彩)

木の肌を見ていた。コケのようなものが木肌についている。それがなんだか斑点のようだ。向こうの木には陽が当たり、少しだけすべっとした手ざわり感。樹種が異なるから、樹形も全然違う。

足元に影が伸びてくる。よく見ると枯葉の一枚一枚もとてもきれいだ。そこにも一つの完結した世界があるのをはっきりと感じる。きれいなものをきれいなままに描きたい、と思えばきれいさだけを抜き取る以外にない。でも、どうやって?

そうだ、きれいな風景があるのではない、のだった。それだけを見ていても本当は何も解らない。「見るべきものは自分、自分の中にその風景がある」のだった。自分で言っといて忘れるなんて…その程度の自分だなあ。

風景

公園からーEvergreen (水彩)

風景ー美しい自然環境や、人間と自然の織りなす風土、歴史的環境などを描くもの。そんな風に多くの人は思っているし、私も長くそんな風に思ってきた。

絵というのはどんなものを描いても自画像だ、という言い方がある。もう少し私流に言いかえれば、どんなものを見てもそこにあるのは自分の投影だということ。寂しい人にはどんなものも寂しく見え、寂しいものしか見えてこない。

美しい風景があるのではなく、美しさを感じる心がそこにある、ということだろう。絵というものはきっとそうやってできているものだ。