Yellow Apple in yellow

「Apple」 2020 Tempera on canvas

Appleの連作を続けています。なぜ続けているのか、時々分からなくなりそうになりますが、ともかく目の前にある作品より、もっと面白いものが描けそうな気がして簡単にはやめられないのです。集中して、一気に「もうこれ以上はできない」というところまで続けなければならない、と自分の中の経験が囁いています。

「迷う」ということがあります。一番きついのは「こんなことをやっていていいのか」と不安になる時です。今やっていることの意味がわからない、という時です。不安なのですから、当然自信も失います。けれど、それは大事なことで、確かに苦しいけれど、あれこれ悩み、一歩踏み出してはまたその場で考える。その方が、根拠のない自信満々、何も悩まず手を動かすだけ、というよりはずっと正当で、マシなのではないでしょうか。

この連作を続けながらも「こんなことをやっていていいのか」と時々不安が湧き立ちます。そして、人が何と言おうと、今自分にできることはこれだけ、と思い直してまた続けています。「今できること」とは能力の問題ではありません。描写技術なら、これよりもっと繊細、写実的なことだってできます。そういうことではなく、現時点でギリギリ自分が納得できる方向で最大限可能なこと、という意味です。方向が間違っていたら?それは考えたら切りがありませんし、ここに至るまでにたくさんの論理と直感を積み重ねて探り出した方向のはずですから、間違っていたとしても仕方ありません。それが納得という言葉の、自分にとっての意味です。

Appleはもう少し続きそうです。ワンパターンのようではあるけれど、ワンパターンだからこそいろいろやれることもあるのです。いま大事なことは「他人の意見を聞かない」こと。集中して、思い通りにやることだよ、と直感が囁いています。

「季語を生かす」は ダメ?

「Apple-rainbow」 2020 Arcid,oil on canvas

「季語」といえば俳句。趣味の俳句を始めてから、100回目の句会をやったことはつい最近書いた。最初はまず季語を覚えること、一句の中に季語を重ねないようにとか、とにかく十七文字という形式に合わせるだけで精一杯だった。途中から季語があると楽だなあと感じ始め、ごく最近ではそもそも季語があるのがいけない、などとド素人の遊びのくせに、歴史ある俳句の世界に(心の中で)イチャモンつけたりすることもある。

「季語を活かす」ってどういうことだろうか。中学生レベルの常識でいうと、「季語」にはそれぞれの季語が持たされている情感というものがある。例えば「小春・小春日和」は初冬(11月頃)の、やや季節に外れた暖かさをいう(気象用語でもある)のだが、その情感というのは「小さな意外性。冬という季節の中に、ポッと与えられた、小さな春のような感じ」である。だから、雰囲気としては日常の中の機微を詠む際に使うとぴったりくる。そのように使うとき「季語を活かす」という(らしい)。

だから、交通事故などの悲惨な情景や不安さ、などをいう時に使ってはいけない、ということになる。そうすると当然だが、組み合わせに選ぶ単語やモチーフもそれにふさわしいものをものを選ばざるを得ず、その結果として誰が作っても似たような句ばっかりになりがちだ。季語とぴったり情感を合わせながら、なおかつ新鮮さ、新しさを生み出すのは並大抵のことではない。専門の俳人ではない、ほとんどの人は楽な方に流れやすいのが自然だろうから、どうしたって凡句の山のひとかけらになるのがせいぜいだ。

句を作ってみればわかるが、季語はとても便利で、しかも実によくできている。それを入れればすぐ俳句の格好がつく「最高の出汁」なのだ。だから100%の人がそれに頼ってしまう。頼ってもいいが、そういう「モノの見方」をするようになってしまう。発見も発想も無くても、モチーフとの組み合わせさえ調和的なら、一見上手な句ができてしまう。季語を活かすつもりが、季語に巻かれてしまうのである。それはマズい。絵に例えると、「富士山に鶴」の絵になってしまう。それはマズいのではないか、と凡句の言い訳に愚痴っている。

旅行したいな

「Apple trip」 2020/02/02 Oil on canvas F6

しばらく旅行していない。「移動」と旅行とは違う。自分勝手な定義だが、旅行とは何がしか非日常的で、少しばかり風景や文化の違いを感じられる場所に行くこと。通過もだめ。そして必ずそこで当地のものを食べることという条件が重なってくる。さらに一泊以上すれば旅行感はグッと上昇する。

現実の時空の中での旅行だけでなく、空想の中の旅行もしなくなっているかも知れない。忙しいというより、ちょっとした冒険心も無くなっているんだな、きっと。チャレンジャー精神が枯れているんだ。あ〜あ。

学生の頃は、ザック(リュック)と寝袋一つあればどこへでも行けるじゃないかと思っていたし、実際そんな格好で一月以上も旅行できた。行けばなんとかなるといつも思っていたし、旅行先でたまたま隣のホームに入ってきた列車の行先を見て、急に心がそそられて逆方向の列車に飛び乗ったり、多少困ることがあってもそれ自体を楽しんでいた。それは自分の小さな冒険心だけでなく、多少の無茶を多めに見てくれる、広やかな心が日本中だけでなく世界中のどこにでもあったからだ、とも思う。その人情(必ずしも温かいとは限らないにしても)に触れることが、旅行でなくてはできないことだったのかも知れない。

旅行しよう。とりあえず現実でも空想でもいいから、まず一歩。チャレンジは決心が要るから、とりあえず決心の不要な好奇心を膨らますことから。触れてみる。やってみる。もう少しだけ遊び心を取り戻したい、と思うことしきり。