カオス

「Green Apple」 2020 水彩

「カオス」は普通「混沌」とか「無秩序」と訳される。「答えが見出せない」「でたらめ」といった意味でも使われることが多い語ですが、ここでは、ちょっとだけ数学的な意味を込めて使います。

「未来予測」は誰でもしています。あるところへ時速30kmの車で行ったらどれくらいの時間がかかるかを計算、渋滞も含めて予想到着時刻を友人に電話したりします。そういう単純に計算で予測できるようなモノを数学では「線形」といいます。1ヘクタールの土地に100kgの種を撒いたら500kgの収穫があった。ならば来年は200kgの種を2ヘクタールに撒けば1000kgの収穫が見込める。これも一種の未来予測です。けれど種の値段が不安定で、どれだけの種が買えるかはっきりせず、気候も不安定で大雨で根こそぎ収穫を失ってしまうような条件では作付け面積と収穫量の関係は簡単に予測できません。このように様々な条件が複雑に絡み合う、(未来予測が単純ではない)こういうモノを数学では「非線形」といいます。日常の様々な事柄の多くは非線型であるということになります。

では、カオスとは非線型のことか、と考えそうですがちょっと違うようです。例えば「あさって午後から小雨」という天気予報があるとします。それなら洗濯は明日にし、外出はあさっての午前中に済ませてしまおうと考えます。天気図もそれを納得させる状況です。翌日は予報通りの洗濯日より。でも翌々日、午後からのはずだった雨が朝からになり、しかも本降りのなか傘をさして外出したのに、午後には雨はあがってしまった。そんな経験は誰しもあるでしょう。天気図から計算し、予測はできるのに、結果は思った通りにはならない。「(必ずしも)予想通りの結果にはならない」ことがある。それが(数学的な意味でいう)カオスです。

似たような状況なのに、ちょっとの違いで結果が大きく違ってしまう。これが「カオス理論」で、気象学者のローレンツという人が1961年に発表した数学理論です。この理論は私たちの身の回りの実際をよく表現していると思います。最初の頃は描くたびに絵が上手くなり、楽しくなってどんどんチャレンジできたのに、なぜか最近は面白くない。なんでも描ける技術力はあるのに結果はちぐはぐ。同じ頃、同じように始めた仲間がルンルンで描いているのが羨ましい…これってカオスじゃないでしょうか。ちょっと条件を変えたら、明日は特別素晴らしい絵ができるかも。これもカオス。でも、せっせとそれを続けたからって秀作が連発できるわけでもない。日常は「非線型」ですから。

「マスク」は鼻と口だけに掛かっているわけじゃない

「Green apple」(unfinished) 2020

新型ウィルスによる肺炎患者が中国・武漢で発生したと報道されてから一ヶ月。最初は生鮮市場の関係者が5〜6人、まとまって入院したということで、食品からの感染ではないかと消毒などする映像が流されていました。

それがあっという間に大流行し、一千万人以上の人々が暮らしているという大都市、武漢の事実上の「封鎖」、湖北省からの移動禁止。同省滞在者の各国への入国拒否など中国国内だけでなく、人権問題を含む国際的な、感情的とも言える反応を引き起こしているらしい。ラジオ、テレビ(は報道の仕方自体が少し異常だが)では、ネット上でマスクが異常な高値で売られているなどの関連ニュースが、連日トップで報じられています。

クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」号の横浜港への寄港・検疫をめぐって、日本政府の危機管理能力のなさが次第に分かってきました。首相をはじめ閣僚たちに事態を把握する能力や想像力が極端に欠けていることに嘆きと同時に、本当に驚きます。現場任せという言い方はまだ好意的で、要は「対応しています」というポーズさえ整えばよい。そこに真剣さなど全く感じられません。「不慣れだから」とかばう評論家もいますが、事あるごとに世界中に医療チームなどを派遣している日本です。そこからの経験・教訓が、自国の場合にはまったく活かされないということを、納税者としてすんなり諒解すべきなのでしょうか。

各国の人が乗り合わせるクルーズ船などは、国際的な人権問題に特に敏感になる必要があり、そこにこそ政治家の存在意義があるはずなのに、対策会議に3分とか6分とかで退席(その後、経済人との会食3時間)する総理とか(後援会への出席のための)大臣欠席など、国家的優先順位の判断ができない人たちが、「国益」を標榜する内閣を構成しているということになります。もともと日本は「人権」の意識も知識も極端に低い国ですが、まさに政府がそれを「自然体で」立証しているという、前時代的な情けなさが目につきます。

でも、翻って考えてみるとそれは全て私たちの責任ですね。そういう人を選び、そういう政府を今も支持し続けています。でも、でも、でも、それも長期間繰り返された「悪い意味での」教育効果。例えば「個性を伸ばす」というスローガンの下での、「期待される人間像」と「協調性」との矛盾。「批判・批評」と「非難」の区別のできない先生、教育委員会、政治家の存在。「表現の自由」の、「自由」の意味を(できるだけ)小さく限定し、老人(的)にしか理解できない表現を十把一絡げに「わがまま」と見てしまう、私たちの「振幅の極めて小さな」社会。あ〜あ。何だか、道を踏みはずすまいとして、かえって道を閉ざしてしまったような。そういえば、マスクには「呼吸を制限する」機能もあるのでしたね。

魚釣りに行きたくなってきた

「Green Apples」 2020 water color

もう何年も、川へも海へも釣りに出かけていない。川(湖沼)釣り用のロッド(竿)も海釣用のロッドも、何本か階段下のスペースで眠っている。ルアー(魚型の疑似餌)もワーム(虫型の疑似餌)も使わないままのが何種類もある。夜釣り用のリチュウム電池付きの蛍光浮き、ヘッドライト、ライフジャケット、磯用の靴とか…(たぶん)すぐ使える状態に揃っている。

学生の頃によく通った中華料理店(もちろん学生値段)のオーナーは釣り好きで、私のスケッチ用のリュックとイーゼルのセットを釣り道具と勘違いして、「今日はどこで(釣りをしたの?)」と何度も、カウンターの向こうから毎回質いた。今から考えると「そういう「(釣りの)よしみ」だから、この人には特別サービスするよ。いいよね?」と在店中の他の客に暗示してくれていたんだろうと思う。なんて優しい心遣い。当時はそんな心遣いなど深慮できず、「釣りの道具とスケッチの道具の区別も分からないなんて、目が悪いのかな」なんて思っていた。恥ずかしいですが、今になってようやく理解できます。

ある時期の英国では、(男の)子に伝えなければならない「父の義務」は「釣り」(のマナー)だという。「(鱒)釣り」と「(狐)狩」は、「貴族の男児」なら必ずマスターしなければならない「必須科目」だった(らしい)。鎖国で、欧州文化と断絶していた江戸幕府の歴代将軍にも、「鷹狩り」を必須修得科目」としていた事実がある(「偶然」とは言いがたい事例がたくさん)。私はそれを必ずしも肯定するわけではないが、なぜ「釣り」なのか、ぜひその意味は知りたいと思っていた。で、ウォルトンの「釣魚大全」(これは名著ですよ)などを読んだわけです。

「英国から学ぶ必要などサラサラ無い」などと言われれば、無言になるしかない。でも腹いせに、「そんな必要が無い」と断言できる「根拠」を示せよ、くらいは言うのが普通だ。