「不作為」の評価

「青い壺とリンゴ」 2020 水彩

「不作為」とは「敢えてやらないこと」、積極的な意味がある。似たような語に「無作為」というのがあるが、こちらは「何も考えずに」という意味で、「偶然に」に近い。多くの場合、評価というのは「結果」に対してなされるものだから、「やらない」ことを評価するのは、その方法も含め、案外難しいだろうと想像される。

多くの場合、評価には段階がある。学生時代の成績評価などはその典型例。数字で表せない事例でも、積極性、協調性、「明るい性格(!)」などには「高」評価がつき、何事も一人でやろうとするタイプには、協調性が無いとか、独善的などの「マイナス」評価がつきやすい。「引きこもり」=「悪」=「何とか社会に引っ張り出そう」という考え方もこのような評価から来ているようにも思う。外に出て、人と協働しないとダメなんていわれたら、芸術など成り立たないし、引きこもったままでも生きていける社会になった方がいい。

「積極性」って何だろうか。あるプロジェクトが企画されたとする。賛成・推進派と反対もしくは熟考派の3つ位には、最低でも意見が分かれるだろう。この時、プロジェクトを企画した方から見れば、賛成派=積極的、ほかの2グループは消極的と評価される可能性が大きい。反対する人は「敵対勢力」と見做されることだってありうる。「協調性」って何だろうか。嫌々でもリーダーに従っていれば、「協調性が無い」という評価はされないと思う。逆に、積極的にそのプロジェクトを理解し、その長短を考慮した上での反対であっても、少なくとも協調性を高く評価されることは(少なくとも私の知りうる範囲内では)稀有。

かなり荒っぽい論理になってしまうが、評価する側(の姿勢)に評価基準が偏りがちだということが、「不作為」の評価を難しくしている(ある意味自然とも言えるが)。日本の社会は、「提案・推進」=「建設的」と短絡的に捉えたがる精神風土を持っている。しかも、その提案自体、上意下達的な場合が多いように見える。提案に対する反対の場合でも「反対するなら対案を出せ」という言い方をよく聞くが、これも提案=建設的という固定した考え方をよく示している。そろそろ「AでなければBかC」ではなく、「Aそのものをしない」という不作為の評価と、その方法を考える時代になってきているのではないだろうか。

ホワイト & ブラック

「黒い瓶とリンゴ」   2020 水彩

白いもの、黒いものを描くのは、ちょっとチャレンジ気分になる。「白いもの」は周りを暗くすることで表現するが、「白の白さ」は、本体と周囲の暗さの序列をきちんと測り、その序列のままに表現しなければならない。しかも、無段階ではなく、きちっと5~6段階にまとめる、四捨五入のような操作も必要だ。

黒いものも同様で、平坦に黒く塗るだけではただの「穴」になってしまう。黒の中の明暗変化を微妙に描き分けることで、黒いモノの材質感を表現する。紙の上では「黒」と「暗さ」の違いは、材質感が有るか無いかが判定基準。明暗を見極めるカメラ的な眼と、それを描き分けるテクニック以外、「黒いモノ」をモノとして支えてくれるものはない。それなのに、よく描けてもせいぜいグラデーションの粗い、写真のような絵になるだけで、きらめくような華やかさや色彩の豊かな味わいなどと、ほとんど無縁な白と黒。けれど描く側にとって、このストイックなまでのマニアックさを、時々思い出したように味わいたくなるから不思議。

テンペラやアキーラ、油彩での「Apple」と水彩での青リンゴを、昨年11月からこの3月までの間に、4号から120号まで20 枚ほど描いた。制作量が足りないと思う。テンペラや油彩の「Apple」は頭で描く。水彩の「リンゴ」は眼で描く。「頭」に時間がかかり過ぎている。頭と眼との関係はこれでいいのかチグハグなのかは、今のところ自分ではよく判らない。

上のスケッチでは青いリンゴはダミー(仮)の主役、アイ・キャッチャーの役目。真の主役は黒い洋酒瓶(画面中央、コントラスト最大)。主役なのに、てっぺんをカットしたのが私の趣味。一つの演劇(パントマイム)を作っているつもりです。

ヒマなことはいいことだ

「 Snickers 」   2020 水彩

新型コロナ・ウィルス(COVID-19)の余波で教室が不定期になり、今日(3/15)から1週間まるまる休みになった。土曜日は午前中水彩の教室があったので、午前・午後を使って水彩スケッチを1枚描いた。

スケッチはいつ、何を、どんな形で描いても愉しい。難しいことは何も考えず、ただ目の前にあるものと自分の感覚との対峙を愉しむだけだから。人に見せるつもりで描くのでもないから、途中でやめても、ふざけて描いても全然気にならない。今回も、たまたま目の前にsnicker があったから、ちょっとだけリアルに描いてみようかなと思っただけ。

でも、それはヒマだから。そのヒマを私に作り出したのがCOVID-19 だとすれば、間接的に私はそれの恩恵を受けた、ということにでもなるだろうか。いずれにせよ、暇がなければスケッチなどできない。プロの画家というのは、お金と引き換えに時間を買っている人のことだと私は思うけれど、世の多くの人は全くその逆で、お金と引き換えに時間を売っている人と考えていることも、一応は知っている。

文化というのはヒマが作り出すものだ、とよく言われる。ところが、その元である「ヒマ人」にとっては、少なくとも近代以降の社会はとても居心地の悪いものになっている。額に汗して働く、身を粉にして働く、…を犠牲にして働くetc。会社のため、家族のため、社会のため等々だけが「生産的」で、ヒマ人は「役に立たない人々」と見られてきた(いる)からだ。どれも自分個人のため、ではないことが共通項。そこに「滅私」という日本的美学?が潜む隙がある。現代で言うブラックな思想の根っこでもある。誰かの、何かのためになること自体は私とて否定はしない。けれど何のタメであっても、それが「滅私」の上に成り立っているならば、そういう「生産的」には100%反対だ。

忙しい人が、時間をやりくりしてヒマをひねり出す。そのヒマで、好きな鉄道旅をしたり、人の通らぬ山や川での昆虫や植物を採取する。それがひたすら「自分ひとりの愉しみ」であっても、やがて水が高いところから低いところへ流れるように伝わって、全ての人々の幸せにほんの少し繋がっていく。趣味と言ってもいいが、そういうヒマを大切にしたいと思う。