変わるもの、変わらないもの

英戦艦「ラミリーズ」模写 1970
「対馬山猫」 模写 1967

パソコンを新しく買い替えたことはもう何度も書いた。替え方が荒っぽかったので、周辺機器の環境もそれにともなって変えざるを得ず、一つ機器が入れ替わるたびに、モノの移動と片付けをするはめになった。

古いスケッチブックを捨てるつもりで開いてみると、上のような絵が他にも何枚か挟んであった。上の戦艦は高校2年生(17歳)の時、下の山猫は中学2年生(14歳)の時の模写だ。たぶん丸ペンと油性インクか墨汁。「山猫」では、手前の木の表現に、割り箸を削って、タッチを変えて描いた記憶がある。

手前みそだが、なかなかよく描いていると思う。特に下の中学生の時の模写は、「山猫の兄弟」という本にあった挿し絵を真似て描いたものだが、ハッチングの線が実に描きなれていて、よどみない。余裕を持って描いているのがわかる。もしかすると今より上手いかもしれない。文房具屋さんもない田舎で、好んで絵を描くような人が誰も周囲にいない環境で、油性インクや丸ペンをどうやって知り、手に入れたかも、いまでは謎。それが若さだなあと思う。

戦艦のグレーの部分は、今では描けないほど細く、鋭いクロスハッチングになっている。17歳といえば私のペン画による「初個展」の年。サルトルの実存哲学に触れ、「世界の中の自分」というものを初めて意識した年だった。ちっとも勉強はしなかったくせに、カミュなどを愛読し、いささか反抗的な気分をみなぎらせていた(笑)。これらの模写を見ると、最近は何でも年のせいにして「逃げている」のではないか、と突きつけられたような気になる。悪いものを見つけてしまった。

新しさを楽しめていない

エスキースのようなもの

新しいパソコンが届いたのが7日、組み立てたのが9日。前のパソコンがアップル(今も並行して使用中)で、今度のパソコンが6年ぶりのWindowsなので、ソフトのインストールなど、セットにけっこう手間どった。

使い始めたのは11日から。今日で一週間になる。パソコン音痴の私にとって、正直、Windowsは苦手だ。アップル社のMacのほうがずっとやりやすい。けれど、愛用のMacが壊れ始めた。もう7年目だからそれもやむを得ない。買い替えるにあたって、動画編集ができるような性能をMacで求めると、残念ながら予算が足りない。しかもこれまでのようなノートパソコンにすると、性能と価格との間にさらに大きなジレンマがある。

それでしかたなく、Windows(ウインドウズファンには悪いが)。しかも再びデスクトップ。けれど、いわゆるコスパを考えるとそれなりに納得できる。息子に言わせると、「Macは選択せずに済む」から楽なのだそうだ。確かにそう思う。

「A,B,Cのうち、どれにしますか?」という選択肢を的確に選ぶには、それぞれの機能も、それらの違いも知らなくてはならない。それが苦痛ということは、知識がないということだし、知識がないということは(少なくともパソコンについての)勉強はしていないということになる。Windowsに戻るということは、「7年間で、すこしは勉強したんかい」と問われているようなものでもある。毎日がアチーブメント・テストと、新しい知識のつめこみ。新しいことなのに、子どものように素直には楽しめていないなあ、と感じる日々。

競争原理

「人形(仮)」(エスキースを試行中)

「世の中は一歩出れば全て競争だ」「だから子どもたちにもできるだけ早くから、それに対応できる力をつけさせなければいけない」、と多くの人たちは考えているようだ。学力しかり、経済観念しかり。そのために学校へ行き、そのために勉強し、そのために良い大学へいき、良い会社に就職する。そこまでの競争を勝ち抜けたことに感謝し、その競争社会のために奉仕する。それが「子供たちの将来あるべき姿」だと、考えているようだ。

新総理大臣の「自助(自分のことは自分でやれ)」「共助(本人ができなければ家族、親類等でカバーしろ)」「公助(あきらめて死ぬ覚悟くらいはさせてやる?)」に、世論調査で70%近い支持を示す国だから、それに疑問を唱えたって、まともに相手にもされないだろう。要するに「競争を勝ち抜けば〇」と言っているわけで、「なんだかんだ言っても、金がなければ何もできない」という「常識」も同じ発想から来る。

TVの中で、ある小学校では「努力して、以前より少しでも順位を上げる、その過程、頑張りを評価するのです」と校長先生が、いかにも順位本位ではないというふうに胸を張る。けれど3位の子が1位になれば、1位の子は下がらなければならない。その子は努力をしなかったという評価になるのだろうか。

「その悔しさをバネにして、次回は頑張れ」というなら、次には今1位の人を引き摺り下ろせという意味であり、これでは単に苦しみを繰り返すばかりの地獄ではないのだろうか。そして、それが本当に「本人のため」なのだろうか。いつもビリになる子に、どんな「肯定的評価」があり得るのだろうか。そしてこれは、別に子どもや特定の分野だけに限ったことではない。要するに「勝ち組」以外をふるい落とすための「国民的制度」に他ならない。

その「常識」は、どうやら世界の隅々まで、というのではないらしい。「競争だけが人生だ」とか、「倍返し」などという言葉とは遠い国々がある。世界で最も「幸福度」の高い国々だ(「世界幸福度報告:国連の持続可能開発ソリューションネットワークが発行はする幸福度調査のレポート。自分の幸福度を10段階で答える世論調査の平均値)。国の経済力の大きさと国民の幸福度とは一致しない。人を引きずりおろしてその地位を奪う。その瞬間だけは幸福度が高いかもしれないが、その逆の場合に、幸福を感じる人はいまい。競争をすべて否定するつもりなどないが、勝ち負けにもっとも高い価値観を置く気持は、私にはない。