「嫌なものは見たくない」けど

無題 (CG)

嫌なものは(わたし自身を含め)誰でも見たくない。その方が(たぶん)精神衛生上も良いような気がする。一方で、「見たくはないが眼を背けてはいけないもの」もあるような気もして、単純に「嫌なものは見ない」と強気になるには、尻のあたりがなんとなくこそばゆい。

見ないで済むものは、個人個人の小さな癖とか趣味とか、だろうか。もし他人のそれであれば、見ても黙っているか肯定するのがよい。余計な口出しは無用である。見たくはないが見るべきもの、それは(おそらく)誰にもたくさんある。たとえば、片づけなくちゃと思いながら、さらにシッチャカメッチャカになっていく自分の部屋。もう見たくない、と思うけれど、そこに暮らしている以上見ないわけにはいかない。自分への幻滅感と、明日か明後日にはやろう、という微かな意志。ああ、暮らしていくってそういうことなんだと、どっと生活感に押しつぶされてシニタクナッテしまう。

大好きなはずの、絵を描くことだってそうなのだ。頼まれて描いているわけでもないのに、絵の具が乾き、その上に埃が被ってくると、「描かなくちゃ」となぜか罪悪感が湧いてくる。あれもあり、これもあったから描く時間がなかったんだ、と自分で自分に弁解すること自体がなんだか寂しい。「なんでこうなるの」と、でも自分を責めるのはやめよう。

「日なたの方を見る」という表現がある。何かに忙しくしていた自分は、その分何か、誰かの助けになっていたはずだ。そこを見ようよ、という視点の転換だ。いい言葉だと思う。そして埃の下から「あれっ?ここにこんないい絵があるじゃない?」と見つけ出し、「なんだ、わたしの絵じゃないか」とにんまりし、「ちょっとここはこのままじゃまずいんじゃないかな」とすこし描き足す。

蛇足だが、政治家にこんな見方をする人が「圧倒的に」多いように感じるが、それは逆だと思う。政治家が、自分や自分のやったことを「日なた」に見るようではおしまいだ。そして、それを「明るくていい人」と思うようでは、自分の脳みそが干からびかけているのでは、と少しは心配してみた方がよさそうだ。

ダイエットのなぞ

メタボ予備軍候補者?に選定されて以来、機会あるごとにそれとなく関連情報を収集している。メタボ解消の一つのファクターが「ダイエット」で、ダイエット=体重減少とは言い切れないが、体重の増減は大きな要素である。それを摂取と消費のカロリーの関係だけに絞れれば目標が立てやすいので、ダイエットといえばカロリーのことになりやすい。

一番単純で誰にも納得できるのは、(摂取カロリー<消費カロリー)=体重減・・・① 。「摂るより消費するカロリーが多ければ体重は減る」と、極めて解りやすい。説明会でいただいた「コツコツ減らす!100kcal 食事編」というポケットブック2ページ目に、「あなたにあった食事量は?」という計算式が乗っている。

 身長×身長×(理想のBMI=22)×基礎代謝基準値(定数)×活動量(定数)=あなたの理想の体型の推定エネルギー必要量

べつに「理想的な体型」など望んでもいないが、とりあえずこれに自分の数値を代入すると
 1.69×1.69×22×21.5×1.5=2060 kcal ・・・②
となる
 BMI=22 については、わたしより皆さんの方がたぶん詳しい。21.5や1.5は、年齢や仕事内容によって異なるカロリーの消費環境を、いくつかのカテゴリーに大別したときの定数で、50-60代男性、坐っていることが多い人は、それぞれ21.5、1.5)。
 

上の①、②の式を見れば、「2060kcal の摂取カロリーを維持すれば、(いずれ)理想の体型になる」ように思える。ところで、わたしが上記の理想の体型 BMI=22 になった時、体重は62.8kg になるらしい。かつ、その時のわたしの基礎代謝量は 1343kcalで、「一日中座ったままの仕事が多い人」というカテゴリーを選択すると、わたしの一日の消費カロリー=1612kcal ・・・③ となる。

 すると、ここでひとつの矛盾が生まれてくるように思える。
 BMI 22=62.8kg=1612kcal<2060kcal

 つまり「2060kcal 維持ではBMI=22 には到達しないのではないか」ということである。特別に(こっそり、激しい)運動をしない限り、摂取カロリーが1612kcal を越えれば62.8kg は維持できなくなりそうに思える。62.8kgになりたいわけではないし、その気も全くないが、多くの人がダイエットに関心を持っているらしいのは確かだから、約1600Kcal のうちの400kcal(4分の1) という大きな差についての説明は、後日改めて報告してみたい。

ある日のポーズ

「ある日のポーズ」  水彩 F10

昨日に引き続き、今日も水彩を描く。どんな絵でも1日1枚描けばなんとなく気持ちが休まる。ここのところパソコンで描く絵は堂々巡りになってきている。映像化を意識した練習なので、つねに写真画像を使うのもちょっとフラストレーションになっている。そんなとき、教室があると、気分転換にもなり、また絵を描きたくなる。

水はなんとなく油よりは自分に合っている感じがする。油絵というのは、本来ねっとり、しっとりした材質感を持つもので、言葉のイメージに反して、水彩の方がずっと乾いてぱさぱさしているものだ。だから、水彩の水気に惹かれるというより、紙に染みこみ、滲み、流れるという偶然性、ぱさぱさした軽さのようなものに惹かれるのかもしれない。

油絵の具というのはその正反対で、偶然性よりもきちっと説明する、論理的、実証的な表現に向いている。水彩画が「感じる絵」だとすると、油彩画は「喋る(しゃべる)絵」という感じがする。画面に向かって立つと、いろんなことを話しかけてくるように感じる。けれど意味不明のことばだったり、レベルの低いことばだったり、支離滅裂だったりすることも少なくない。そんなときはムンクの「叫び」の中の人物のように、自分の耳をふさぎたくなる。

モデルさんは少し眠そうだった。今日は暖かかったし、じっと坐っているだけでは眠くなるのも仕方ない。来週はまた「冬の嵐」が来ると気象庁が警戒を呼び掛けているが、そんなふうにして、春は少しずつ近づいてくる。