帰還不能点

西洋シャクナゲ   水彩 2021 

The point of no-return「 帰還不能点」とは、たとえば飛行機が飛び立った空港へ引き返すには燃料が足りず、もう戻れない(その先で解決するしかない)という点(位置)のことだという。何だか人生にもそんな点があるような気がして、心に残る語だ。

2021年4月16日の今なら、「東京オリンピック」はもう帰還不能点を過ぎているだろうか。過ぎているとすれば、それはいつからだったのかを振り返り、そのときどんな判断が可能だったのか検証してみることはけっして無駄なことではないと思う。今のオリンピックへの進み方は、かつて中国北東部で関東軍が次々と戦線を拡大し、政府も国民もそれに引きずられるようにして、やがて悲惨な結果に陥った状況にどこか似ている気がする。

「帰還不能点」は当然ながら計算可能である。飛行機に積める燃料の量は決まっており、その半分を過ぎれば帰ってこれないことくらい小学1年生でも解る。帰還不能点を過ぎて何かトラブルが起きた時、問題をそれ以上拡大させないためにはどんな方法があるか、航空会社ならば当然考えておくべき責任がある。もしも考えていないならば「想定外」という言葉の使用を許すことはできない。「トラブルは必ず起こると想定する」ことが常識だからである。

東京オリンピック開催か中止かが、すでに判断の帰還不能点を過ぎているとすれば、当然これから起こること(トラブル)への回避策は、国家プロジェクトでもある以上、二重三重に考慮されているはずである。航空会社同様、「想定外」の使用は許されない。なぜオリンピックが1年延期されたかを知らない人はいるまい。けれど、現在の政府のバタバタぶりを見る限り、結局は鎌倉時代の「蒙古襲来」での「神風」のような僥倖を信じているのではないか、という気がしてならない。しかも、これまでも事あるごとにそのような気持ちにさせられてきたのだからなおさら。

「自分磨き」ということば

制作中。これからどうしよう?

「自分磨き」という言葉がコロナ禍下でよく聞かれるようになった。テレワーク(会社と自宅のそれぞれのパソコンをオンラインで結んで仕事すること)などで通勤などの拘束時間が減り、自分のスキルアップのための時間ができたこと。大学生などでは遠隔授業(本来ならこれもテレワークなのだが、なぜかこちらは日本語だ)で、授業時間を自分の裁量で自由にできるようになり、こちらもダブルスクールなどで資格を取ったり、趣味に時間を割くなどできる環境になったことで、自分をブラッシュアップすることを意味する。

インターネット上で見たのは女子大学生の「シェイプアップ」。人気のユーチューバーなのだそうだが、これなど一石二鳥どころか三鳥、四鳥にもなっていそうだ。

けれど、(すべてにおいてそうなのだが)視点がどこにあるかがいつも気になる。スキルアップも会社での仕事のためだったりする。会社の中での仕事をスムーズに回せば地位向上には役立つだろうから、確かに自分のためと言えないことはない。でも、もしその会社を辞めた時に他では役立たないものなら、そのスキルアップは結局は会社のためのものではないだろうか。自分100%に思えるシェイプアップも、美的な基準がどこにあり、なぜそうなりたいのかを考えないと、マニアックなダイエットや筋トレの虜になりかねない。

わたしはどうだろう。コロナ後?に使えるようにパソコンやiPad などにたくさんのアプリをいれ、かなりの時間を割いて使い方の練習をしている。けれど、パソコンが使えなければ絵は描けないのだろうか。iPad などは確かに便利さを感じるが、逆にそれで失うものもあるのではないか。一見するとパソコンができないと困る社会になりつつあるように見えるが、それが「常識」と自分勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。「自分磨き」が「自分すり減らし」にならないよう、よくよく考えなくてはならない。

近くのスーパー閉店

「若い人」 水彩 2021.3

近くのスーパーが今日閉店した。自宅から歩いて10分くらいの一番近いスーパーで、コンビニに近い感覚で買い物に行っていた。十日くらい前から閉店のことは伝わってきていたが、どんな状況かなと夕方覗きに行ってみた。

妻は数日前から「棚にほとんどモノがなくなった」とか「生鮮食品はふつうにある」とか言いながら何度も様子見に出かけていた。いよいよ閉店の今日、夕方何か安くなっているのではないかと一緒にでかけたが遅かったらしい。入場制限がかかり、列に並んでから店内に入ると、ほとんどの棚に「半額」の札があるだけで、肉や一部のお惣菜以外の品物はもうほとんど無くなっていた。

わたしは商品の無い棚や右往左往する人々の写真を数カット撮った。閉店の理由も今のところ分からないし、新築?新装?開店するのか廃業なのかも分からない。コロナの影響があるのかそれもわからないが、閉店という言葉がどことなく暗いイメージと結びついてしまう世代のせいか、混み合う店内の人々と空の商品棚とのギャップをことさら意識してしまう。若い人たちは次の情報をキャッチしているのか「今までありがとう」とか、明るい声で店員さんたちに声をかけている。

小さな店の閉店はニュースなどでも耳にするが、それなりの規模の店が目の前で閉店するのを見る経験はあまり多くなかった。いろんなことがそこに象徴的に重なってかすかなショックを感じていたように思う。ノスタルジーとかいうのではなく、これから起きていくことがらの目に見える一歩のような不安というか。