働きかた未改革

「宮代運動公園にて」  移動中チラッと見えた、気持ちよさそうな場所

「働く」ということはどういうことか。その「定義」をこれまでと変え、「新しい働き方」を志向する、というのが「働き方改革」ではなかっただろうか。コロナ禍でオンライン化が加速され、改革は進むはずだったのではないか。ろくすっぽ働きもしないわたしがいうのもなんだが、もっぱら時短とオンライン環境くらいが話題になるだけで、「働く」ということの意味自体はほとんど問われていないのではないか、と思う。

働く時間と方法という意味では、確かに文字どおり「働き方」はすこし変化(決して改革なんかではなく)したかもしれない。飲食店ではテイクアウト用の品を作るようになり、会社員の数%は会社に出勤せずに仕事ができるようになり、配達する人は一層忙しく、体力をすり減らすようになった。でも、これでは単に「働き方の変化」ではあるが、どこも改革になどなっていない。働かなければ生きていけない以上、働き方=生き方であり、そうであるならば、「どう生きるか」「どんな生き方をしたいのか」を考えずに「働き方改革」など、絵に描いた餅どころではない。

「働き方改革」の根本は「働く=お金を稼ぐ=時間・体力の提供」という等式を変えるということだろうと、わたしは思う。働く≠お金を稼ぐ、でもいいし、お金を稼ぐ≠時間・体力の提供でもいい。とにかく、この等式からチェンジすることが「改革」なのではないか、と考えるのである。会社が個人の上に在って、雇ってもらわなければ生きていけないという悲壮な発想を変えること。それが改革のエンジンなのではないか。

大きな会社に就職して「安心安全!な生活」のあと、悠々自適に海外旅行…なんて戦後の発想が今も年配の方を中心に、妄想として残っているのではないだろうか。どこかで「額に汗して」「世のため、人のため、会社のため」に「自己犠牲を顧みない」という、誤った「美徳」感をいまだにまき散らしているのではないか。それが子ども、孫に悪影響を及ぼしていることにさえ気づかないほど、耄碌した社会になってしまっているのではないか。「遊んで暮らせるほど世の中は甘くない」と教訓を垂れるのではなく、そういう社会になったらみんな楽しいんじゃない?という肯定感が、この奴隷根性に縛られた日本には今一番必要なんじゃないかな、と思うのだけれど。

パルスオキシメーターを買った

メディニラ 水彩・ペン・ファブリアーノ紙

パルスオキシメーターを買った。しばらく前から、買った方がいいかなと妻が言っていたが、とうとう買ったようだ(中国製。日本製は高くて買えなかったらしい)。パルスオキシメーターは心拍数と血中酸素飽和度を測るもの。最近は特に人差し指の先を挟むタイプのものをメディアでよく見かけるアレ。運動選手は、負荷を確かめながらトレーニングの内容を決めたりするのにも使っているらしい。

買ったその日は、家族全員が代わる代わる指を挟む、ハサむ。わたしは酸素飽和度が高く、ほぼ99%。でも、なぜか心拍が弱い(逆に心臓が強いからそんなに拍動しなくてもいい?)ように見える(視覚化される)。そのうえ、なぜか人差し指だと「心停止」してしまう。小指なら生き残れる。息子の指はわたしより太いのに、ちゃんと人差し指で測れるから指の太さのせいではない。コレフシギナリ。「心拍数」はわたしの場合、安静時ならほぼぴったり60(それがペースメーカーの仕事)。でも、翌日からもう誰も測らない。わたしもそれが今どこに在るのか知らない。これで、いざという時役に立つのか—立たないね。買っただけ、持っているだけの安心感の好例を更新。

コロナ禍で、入院したくても自宅療養せざるを得ない人が、自分または家族が現状を把握し、適切に医療機関に連絡する際の重要データとして、「酸素飽和度」がひとつのキーワードになっていることをメディアは再三取り上げていた。その影響で買ったわけだが、一時はこの器具が品薄だったという。皆同じことを考え、同じ消費行動に走ったということは、かつての「トイレットペーパーの争奪戦」とおなじ構図だと言われている。その時は「どうせデマがデマを呼んでいるだけだ」と冷静でいられた我が家が、それが今回ということは、教訓が生かされていないというより、「前よりバカになった」ということになると思う。

パルスオキシメーターは「バカの程度を測る器具」ではもちろんないが、見ようによってはそういう装置とも受け取ることができる。かつてトイレットペーパーを山と積んだ人も、結局はすべて費消できたと思うけれど、パルスナントカはどうか。場所を取らないことが(すでにどこにあるかさえ分からないのだから)せめてもの取り柄ではあるが。

Kiss

Kiss (CG合成)

昼食を終え、ちょっと出かけようと玄関に立ったら、鏡に一本の百合が写っていた。絵のモチーフに使ったやつだが、最初の花はすでに萎れて切り取られ、そのとき蕾だったものが咲き、それもまた萎れて、鏡に寄りかかっていた。

「自分自身にキスしているようだ」。直感的に脳裏に画面が浮かび、スマートフォンで写真を数枚撮った。背景などに若干の加工を加えた。いつか作品にしたい構図だ。

「ナルシス」というテーマも浮かんだが、ナルシスなら水仙だろうから、それはやめた。状況から言えば「諦め=despair 」や、もう少しロマンティックに「good-bye」などのタイトルにしようかと思ったが、やはり最初のイメージに従った。ふと、なぜか自然史博物館で見た、クジラの全身骨格を思い出した。