スケッチ会

椰子の実、オウムガイ、水差しなど  (2010頃のスケッチ/ 鉛筆、水彩)

一昨日(6/15)、久しぶりにスケッチに出かけた。最近はタブレットを使って描いてばかりだから、手が動かないかと心配したが杞憂だった。風景スケッチは楽しい。見て歩くだけでも楽しいのに、描いたスケッチが手元に残るというお土産もある。仲間がいるのもいい。

以前は多人数でスケッチに行くのは億劫だった。一度スケッチに出たら最低でもスケッチブック一冊(今は17ページくらいのものが多い)を描かなくては気が済まなかった。スケッチは続けて描くうちにリズムが掴めてきて、ぐんぐんスピードがあがり、シャープになり、視点も研ぎ澄まされてくるものだ。だから、だらだら描いていてはいけない。描いたらすぐ移動することを繰り返すのが、上達のコツだと思っている。多人数ではそんなマイペースが守れない。

けれど、最近は気心の知れた仲間たちとスケッチに行くのも悪くない、と思うようになった。教室の人たちのレベルが上がり、何とかペース合わせられる程度になってきたせいもある(わたしも随分我慢強くなったし)が、スケッチとそれを描く人とのあいだに興味が移ってきたことが大きいような気がする。

「スケッチと、それを描く人のあいだ」。「人間性」といえば少し大げさな気がするが、まあ「人となり」というのがそれに近いだろうか。おっとりした人がゆったりした絵をかくとは限らない。おしゃべりな人が饒舌なスケッチを描くとは限らないのだ。下手な絵にも存外深い意味はあり、遠近法の狂った絵にもその人となりが鮮やかに輝くこともあるだろう。世間話をしながらその人の描きぶりを見、スケッチを見る。そうやって、いわば人間のスケッチもする。それも、というよりもしかしたら、そちらの方が面白いと感じるようになってきたのかもしれない。

旧岩槻市内スケッチ

岩槻:鈴木酒造(銘柄:万両)
寿司デリバリーのある路地

今日は「青いカモメ絵画教室」で、久々のスケッチ会に20人ほどが参加した。現在はさいたま市になってしまった旧岩槻市内で。曇りまたは雨天の予想に反し、日傘をさして描くことになった。午前10時、岩槻人形博物館前での集合から午後3時(結局 5時までになってしまったが)の間、自由制作、自由解散。午後2時~3時の間だけ、集合場所でわたしが希望者に講評するという手はず。

パンフレットによると、岩槻は戦国時代の築城から明治の廃城まで、江戸時代には宿場町でもあった古くからの城下町。いわゆる天守閣のあるような城ではなく館(やかた)タイプだったようだ。近くを流れる元荒川(当時は荒川本流)から水を引き込み広大なお堀を巡らしていた(現在の城址公園)。武士だけでなく、武具や家具等の職人たちも周辺に多く住み、それが現在の「人形の町」として全国に知られる岩槻の土台になっているらしい。

スケッチブックを手に歩いてみると、ところどころに風情のある区画を見るが、城下町といった風情はほとんど感じない。それだけ発展したともとれるが、町の性格が質的に変化したのだろうとわたしには思える。特に古いものを描きたくて探すわけではないが、他所とは違うものを見つけようとすると、歴史的なものが対象になりやすいのはやむを得ない。明治4年創業という鈴木酒造を描いたスケッチは、そうした歴史ものの1枚。寿司デリバリーのバイクが並んだ1枚は、少し古びた町と、コロナ禍下の今とがドッキングしたスケッチになった(はじめにそういうことを狙ったわけではない。ふっと絵になる路地かなと感じたところにたまたま店舗があった)。

とても暑かったので、昼は博物館前のカフェで、冷えたタピオカミルクティーを飲みながら持参のおにぎりを食べた。午後のスケッチのあとのジェラートはブルーベリー。あとで聞いたら、鈴木酒造提供の「酒粕ジェラート」があったらしい。これは近日中に試食、報告せねばなるまい。

CGスケッチ

Apple on the note  CG

CGスケッチ、という単語があるかどうかは知らないが、ごく最近のわたしはなるべくCGでスケッチするよう意識している。鉛筆が紙にこすれていく手触り感など、ひどく官能的でついそちらを使いたくなるが、ぐっと踏みとどまる。

スケッチだから目の前には対象物がある。紙のスケッチブックと同じように描いていく。ペンとかブラシとかの選択肢がめちゃくちゃ広いが、使うのが何となく手触り感のあるブラシに偏りがちなのは、普段から実物をつかっているせいだろう。わたしはこれを経験からくる利点と考えるが、ある人はそれは欠点だという。実作の経験がCGでの可能性を逆に狭める。なるほど。

タブレットは確かに多機能で、きわめて便利であるが、一番の難点は小さいこと。1mサイズで描きたいときでも、せいぜい20㎝程度の中で描くしかない。拡大すればいくらでも大きく描けるとうたわれているが、具体的なサイズの違いは身体の使い方からして全く別次元の問題だ。たとえば大きな画面では立って描く。そして腕を大きく使って描くが、タブレットではそんなことはあり得ない。

けれど、その難点?こそ、タブレットのタブレットたる所以であるのだから、わたしにとっては甘辛い。そのうえ、紙のスケッチではあとでそれを写真やスキャンしてパソコンに取り込み加工してきたが、CGスケッチではそれが同時進行である。ひと手間もふた手間も短い。しかも完全にデータ化され、どのような媒体にも横展開が容易である。したがって使わないという選択はもったいなさ過ぎる。—でもなあ、紙に描くのが気持ちいいなら、それがいいんじゃないか—1枚より100枚、1万枚の方がいいと考えるのは、その方が「知識化」されやすいからだろう。芸術の秘密は、知識化されることでかえって失われるものもあるんじゃないか—悪魔がいつも耳元で囁く。