切り子のグラスー2

切り子のグラスー2 (CGスケッチ)

昨日に引き続き、切子のグラス。実作としては「一昨日に引き続き」。昨日は別の「切子グラス」を描いていた。

意外に意気込んで描いたし、時間も意外にかかった。でも、こうやってみると、最初に、ややいい加減に描いたモノクロのグラスに負けている。時間は倍もかかったのに、アマいんだよね、絵が。

せんじ詰めれば「色があるから」かな。色があると何でもリッチな気分になる。それは本当。だから誰でも使いたくなるし、使ったこと自体に逆説的に「リッチさ」を感じちゃったりする。そんなもの求めてもいないつもりでも、感覚は意識の外でもあるから。

発想

切り子のグラス  (CG)

発想というのはある日あるとき、突然に頭に閃くもの。そして、それはずっと考え続けていたバラバラなものが、急にこれまで予想もしなかった結びつき方をした瞬間。ノーベル賞受賞者たちの中にはこういう体験を話す人がいる。ノーベル賞でなくても、発明家などにも同様の体験をする人が少なくないらしい。

自分と比べるのもおこがましいが、レベルを別にすれば似たり寄ったりの体験は、誰でもある程度あるのではないだろうか。一方で、あの人の発想はいつもちょっと変わっている、などということもあり、その場合は突然ではなく、普段から別回路の発想法?をもっているということになるだろうか。

わたしがいま望むのは「ノーベル賞型」ではなく、「発想法型」の発想法である。言うまでもなく、マネできそうなのはそちらしかないからだが、そう思っていろいろ調べたり、考えたりしていると、発想(法)云々は実は発想の問題ではなく、単に「考えること」なのではないかという気がしてきた。要するに、「考えない人」から見れば「考える人」がユニークな発想に見えるだけなのではないか、天才的な発想というのは確かにあるだろうが、一般的にはそういうことがほとんどなのではないか、と思えてきたのである。

考えない人などいないだろ!お怒りはごもっともです。でも、まともに、とか論理的あるいは合理的に、とかあるいは科学的に等々、少し限定すると急にその怒りも鎮まるように思う。何が大切で、そのためにはどうするのか、どんな方法があるのか、それを自分でどうやるのか、そんな筋道を「普通に考える」ことのほうが、案外「ユニーク」と考えられているのではないか。「考えること」は「思う」こととは違う。考えるためには知らなくてはならないし、知るためには学ぶ・調べる・経験するという「行動」が要る。わたしが「考えない人」のど真ん中にいる理由はこれだな。ナマケモノなんだ。

Glass apple

Glass apple (2021に加筆)

2020年にいったん完成させた作品に加筆したもの。加筆箇所はほぼアウトラインのみ。前はウルトラマリンの細い線だった。何となく納得できないまま、ほぼ1年放ったらかしになっていたが、昨日ふっと「アウトラインの細さが、存在感の無さにつながっているのではないか」と思いついた。

同じウルトラマリンで太くしてみたが、効果が弱いと感じたので思い切って黒を混ぜてみた。線の端が必要なラインからはみ出すのは、一度筆を止めた直後に無造作に再び筆を置く癖のため。水彩の時はそれでリズムをとることもあり、必ずしも悪い癖とも言い切れないが注意が必要だ。まあ、試験的な作品だからいいとしておく。

黒という絵の具は、艶があると締まった深い感じを与えるが、艶が無いと灰色に見えてしまう。水彩の場合はアクリル板を使うと黒がすごく良く見えるのはこの「艶」の効果。ここでも黒だけは艶を出してみた。「ガラスのApple」という題にしたが、そんな感じは出ただろうか。