ポインセチアのスケッチ

やっとこさで一つビデオをアップできた。40日近く一本もリリースできなかったが、特別忙しかったわけでも、体調が悪かったわけでも、サボったわけでもない。自分としてはかなり頑張ったつもりだったが、できなかった。

この動画も、もとは2時間以上の動画だが、それをカットしたり、早送りしたりして22分くらいまで縮め、いったんまとまったような気がした。でも、そうしたら自分が感じていたことがどこかに消えてしまい、他人はともかく、自分で見て実にもつまらないものになってしまった。かといって、2時間だらだら垂れ流すほどの勇気はない。そういう動画を3本もぐちゃぐちゃとこね回していた。

スタートに戻り、この強烈な赤へのチャレンジが今回のテーマだったことを思い返して、そのエッセンスだけを動画にしようと思ったら、1分20秒で終わってしまった。何十回も動画を繰り返し見ているうちに自分のなかで煮詰まっていき、それで十分というところまできてしまった。「そもそも動画をひとに見せる必要ないんじゃない?」というところまで、あと一歩。そこを踏み越えてしまえば、もう動画をつくる動機がなくなってしまう。一種の虚無。

ここでは、プロセスは蛇足のようなもの。その説明を見聞きしたところで、何か具体的なものが分かるわけではない。まあ、そんな風に描くんだろうなと、予想通りの展開にうなづくだけ。―なるべく続けて、未完の“22分バージョン”の方もアップしたい。面白くはないが、たぶん具体的なヒントは、そちらでは得られると思う。「どちらか」ではなく、「どちらも」やってみることに、もう少し気持ちを向けないといけないようだ。。

ポインセチア

「ポインセチア」 フェルトペン

 

ポインセチアをモチーフ用に数鉢、買い替えた。時期のものだから、あとから店頭に出てくるものほど立派な鉢になるが、値段はだんだん下がってくる。年が明けたらもっと下がるかと言えばそういう期待は昔の話で、今は時期を過ぎればさっと消えてしまう。

フェルトペン 0.8mmで SM のスケッチブックに描いてみた。ペンが太過ぎるかと思ったがそうでもなかった、というよりピッタリだと思う。絵の世界では「大は小を兼ねる」ではないが、可能な限り大きめの筆やペンを使う方が、ゆったり、おおらかで骨太な感じがして好きである。

けれど、YouTubeなど見ると、細い筆を何本も持ち替えて、これでもかというほど微細で写真的な表現をアピールする動画で溢れている。カメラの性能が良くなって、素人でもシャープな写真を撮ることが容易になっただけでなく、世界中の多様な表現に触れる機会も、まるで呼吸をするように無意識的なまでに、当然のこととして見ることができるようになっている。リアリティのレベルが10年前と今とでは格段に違うのだ。そのような状況に慣れた目に耐えるには、顕微鏡を覗きながら手術をする医師のようにメスを、じゃなかった、筆をとっかえひっかえ、針に糸を通すような緻密な描写が必要だと感じられているということなのだろう。

ゆったり、おおらかなんて、たぶん旧石器時代の化石か何かのように、それらに血道をあげている人には感じられているに違いない。でもこう言おう。現代人は皆ラスコー洞窟の野牛の絵を越えたのか、レオナルドダヴィンチを越えたのか。歴史書を繙くまでもなく、人間のやっていることは先年前と大して変わらない。太い筆で、ノッタリ描こうよ。化石と思う奴には思わせておけばいいじゃないか。

「T」の構図

T の構図

絵画の話。昨日のブログに載せた絵を例にすると、上の画像のように「T」の構図を意図的に作っている。Tの縦の棒を左右にずらす構図もよく使う。わたしの好きな構図の一つである。

なぜこんな構図が好きなのかをちょっと考えてみると、わたしのへそ曲がり具合が反映されているらしいことはすぐわかる。ある意味、構図はその人の性格や考え方、感じ方も暴露してしまうのかもしれない。

T という字形は不安定である。それを好むということは、不安定を好むということでもある。わたしは“抵抗分子”かも?絵画でも、まずは「安定した構図」を基本とする。初めから不安定なのは、基本を知らないか、(身体の)どこか悪い可能性がある。安定構図の代表は「山」または△(三角形構図)と呼ばれる“どっしり”型。山の頂上、三角形の頂点を少しずらし、ほんの少し動きを加えて使うのがオーソドックスなやり方だ。

Tや▽の構図は不安定感そのものが目を引く。だから、モチーフもそれにふさわしいものが選ばれやすい。それがここでは“超”保守的なモチーフを描いているぶん、二重に反抗的だろう。そういうへそ曲がりさがこの構図に見えている―そしてこのような感覚はあらゆる世界に広がっている―こんなふうにわたしは絵を見ているのです。