動画の向こうから聞こえる

ちょっとしたドラマ

今日はクリスマス・イブ。わたしたち家族は一足先に昨夜、ちょっとだけ外食で済ました。そのあとブログを書いて寝た、つもりだったが今朝見ると「ない」。アップロードしたつもりで、そのまま夢の中へそれを持って行ったらしい。

動画らしい動画を意識して作り始めたのは2022(今年)の6月頃から。YouTubeチャンネル開設は2021年9月だが、それからしばらくはCGスケッチとそれをアップロードするまでの手順の練習しかしていなかった。6/28に開設以来の視聴1000回。回数など気にするレベルではまだ全然なかったが、なんとなく嬉しくなってこのブログで報告した。8月末に2000回。いま12000回を越えている。最近は特に加速して3日で1000回に達する。単純計算すると、1日あたりの視聴回数が6/28時点の100倍になったことになる。

人気チャンネルだとアップして1時間も立たないうちに数万回になるものもある。そういうものと比べると小さく見えるかも知れないが、それでも一日に数百人という人が視聴してくれるというのは凄いことだと思う。「YouTubeは暇な人が見る」という人もいるが、必要で見る人も案外少なくないのではないか。視聴回数などの増え方を見ていると、視聴者はより高密度、より効率的なものを、強い欲求で求めているように感じる。けっして暇を持て余し、どうでもよい動画を眺めているのではなく、むしろ「時間というコスト」を厳しく追及する人たちが、現在の自分の要求にぴったりのものを探しまくっている姿が浮かんでくる。

動画を作っていると、「もっとちゃんとしたの作ってよ」「もっと効率的、もっと解りやすく」という欲求のオーラがデータから放射してくる。数が大きくなると、その声も姿もわたしを揺らし始めるようだ。作る側はその声に応えるとも押されるともつかない気持ちで、次の動画を作り始める。もしかして、ステージ上の歌手と観客の拍手もそのようなものだろうか。
 YouTubeのクリエイター向けの動画がある。その中に「体を壊さずに作るには」というのがあった。確かにそう。大きな欲求に応えようとすればするほど、時間も体力もそこに吞み込まれそうになる。限度というものがない。今日はクリスマス・イブ。

都会の中の孤島

「無題」 フェルトペン 

「スマートフォン(またはパソコン)からの各種申請が出来ない人」という言葉が時どきニュースなどの中から聞こえてくる。ちょっと調べてみると、スマートフォンの普及率は90%、パソコンは70%(世帯当たり、2020、総務省)。スマートフォンの普及率は2022ではもっと高くなっていると思うが、持っているのと使いこなせるのとでは全然意味が違う。

先日ある人と数十年ぶりに電話をしたら、スマートフォンもパソコンも持っていないという(ガラケーは持っている)。たまに東京都からの通知を知るときなどに不便を感じることがあるが、だいたいはほぼそれで問題を感じることはない、とも言っていた。

「それで不足、不満を感じない」。ここに「都会の中の孤島」があるんだな、と思う。たとえ話だが、かつて日本の農家では牛や馬を使って農作業をしていた。もちろんすべての農家が牛馬を飼えるはずはなく、それを所有できる農家はある程度の富農に限られる。牛馬の無い農家で、小さな農地なら「それで不足、不満を感じ」なかったのではないか、そういう農家の方が圧倒的に多数でもあったろうし。けれど、牛や馬を使っていた農家がそれを失ったときはどうだろうか。不足・不満どころか、何とかしてそれに代わる、より効率的なものを欲しがるのではないか、たとえば耕耘機(こううんき)とか。

都会の話をしているのに日本の農家の例ではいかにも頓珍漢だったが、要するに「発想の広がり」のこと。「不足、不満を感じない=自足自給=足るを知る=小さな幸せ」的な発想は、ある意味現代の日本にも通底している、ひとつの発想のように思える。一方、(持たざる人から見れば)「牛馬は贅沢」かも知れないが、それは耕耘機という新しい機材への眼を開き、さらにトラックなどその次の広がりを喚起する。そして「小さな幸せ」は「小さな幸せ」どうしを繋ぐ手段も失い、どんどん「不足も不満もない」自分一人の「孤島(孤独ではない)」になっていく。そんな絵が見えた。

電話口の人はもう80歳を過ぎている。「まだ80歳」というパワフルな人ももちろんたくさんいるが、スマートフォン、パソコンをまったく新しく覚えるには結構な忍耐が要るような気もする。「時代に遅れないように」と軽々しく言わずに良かったかな、と少し複雑な気持ちが残った。

ピンクと桃色、ベージュと肌色

ピカソ「ギターと楽譜のある窓辺」

絵を描きながらふと考えた。ピンクと桃色はどう違うのか。絵を描く人ならもちろん、「ピンクはクリムソンレーキ+ホワイト」「桃色はバーミリオン+ホワイトだろ?」などというでしょう。でも、「同じ色だろ?」と言う人の方が、実は多数派かも知れません。

 「色を使う経験の少ない一般の人には、もしかして同じに感じているのではないか」とふと疑問に思ったわけですが、その時点ですでにわたしは「ピンクと桃色は違う」と宣言する少数派に属すことになります。「同じだろ?」というふうにわたしには見えないのだから仕方ありません。当然その逆もあるわけで、問題はなぜそういう色感の違いが生まれるか、ということになるでしょう。

 わたしの記憶では小学校4,5年生くらいになって、初めて水彩絵の具を使った(それまではずっと鉛筆とクレヨン)。今は学校によって違うが1,2年生ごろから使うらしい。そんな年齢のころ、色の名前をどう呼び、どんなふうに混ぜて描いていたのだろうか。
 色の名前と実際の色を一致させることは、一般的に想像されているより、たぶんずっと難しい。TVやラジオの放送などを聞いていても、「エメラルドグリーンの海」とか「コバルト(ブルー)の空」とか、いかにも「識ってるよ」ふうの実際の色名を出すが、聞いている人がエメラルドグリーンやコバルトブルーを知らなくては価値半減である。
 児童用に「ちゃいろ(「つちいろ」と書いてあるのもある)」とか「はだいろ」など、すでに混色したものを色名としてセットに入れてあるのもある。そういう“おとなの眼から見た「子ども」的命名法”は(専門的にみると)正直、問題だと思うが、かといって「クリムソンレーキ」だの「バーミリオン」などの専門用語を使うのも、それはそれで、問題だろう。そして結局、色の知識と訓練は損なわれる。「美術は知識を得るものではない」からだと思う。

 ともかく、そうやって本当の(?)色と色名に関する初歩的な知識も訓練もないまま社会に出る大人に、「ピンク」と「ももいろ」の区別は想像以上に難しいのかもしれない、と思い直した。そこに「はだいろ」を加えると、ピンクと桃色の区別に輪をかけてこんがらがってきそうなことは容易に想像がつく。「ベージュ」は、どちらかといえばたぶんファッションやインテリア関係の用語で、絵画の中ではほとんど使われてこなかった色名である。少し難しくなるが「シェード」などもそれに近い呼び方だろうと思う。特別な例だろうが、「らくだいろ」というのを見たか聞いたかした記憶がある。一般人が色の名前と色をどのくらい判別できるかは、何気ないようだが案外深く文化の質に関わっているような気もする。

 ところで、このピカソの絵では、いま述べたような色がぜんぶ使われている、可能性がある。「ここはピンクだろ、これはベージュだろ、こっちは桃色」などとぶつぶつ言いながらピカソがこの絵を描いた、とまでは想像しないが。