コンスタント

コンスタントって、派手な感じは全然ないけど、決してマイナーな感じでもない。一歩一歩、堅実に歩む姿を想起させる語感。早くはないが立ち止まってさえいない。そんな力強い感じ。

何事も持続力が大切だ、と怠惰なわたしでもやっぱり思う。持続力を持続するにはいくつかの条件があるに違いない。まず、健康。病気ではまず気力を維持するのが精いっぱいで、一歩なんて考えられなくなるだろう。そうしたらつぎは気力か。これは好奇心とか、向上心などのきれいな言葉に移し替えておこう。それから?

じぶんのことを考えてみると、まず健康は〇。好奇心とか向上心もまあ人並みにあるつもりだから、これも〇。でも、決して持続力があると自負できないどころか、すぐ逃げようとする癖がある。とすると、持続力の次の条件は性格ってことになるかな?確かにわたしは恥ずかしいほどの臆病者だ。だから、面白そうなものでもまず最初に手を出すことはしない。遠巻きに見て、みんなが楽しんで、やがて飽きたあと、そっと自分もやってみる。そんな性格だが、それと持続力は関係あるかな。いや、「そっとじぶんもやってみる」のあと、失敗しても失敗しても、自分が納得するまでやる“我慢強さ?”は、平均よりはちょっとあるかもしれない。でも、コンスタントに進んでいけないのだから、それではなさそうだ。

いや、そういうことより、コンスタントに生きるためにはその先の目標が必要なのではないか。無目的に一歩一歩なんて…あるかもしれないが。わたしには必要そう。目標があれば、それに達するまでの行程がある。それを日々に分割していけば、毎日が変化しつつ一歩一歩進むことになる。それだ!わたしに欠けているのは。―そうだなあ。解っているけど、身につかない「計画性」。性格というより考え方の問題だ。ああ。頭がなあ。

明朝、公開します。見てね

2023/02/08. 6:00 にYouTubeに公開予定

明朝6:00 に上の動画を公開予定です。この動画の編集に3週間もかかったのに、あとから考えるとすご~くマイナーなモチーフを選んじまったものだ、と思う。もっときれいな花とか女性の描き方、みたいなのを選べばより多くの人に見てもらいやすいと思うけれど、どこかちょっとヘソが曲がっているらしいのを、その時は夢中になっていて気づかない。

YouTubeは、なんと言っても「視聴者本位」。はっきりそう言っている。わたしも無視しているわけではなく、むしろ普段の教室で一人一人にアドバイスしそこなったところなど、なんとかフォローしたいという気持ちを強く持ってビデオ製作しているつもりなんですが、でも、それじゃ視角が狭すぎるんだな。もっと大きな目で(生まれつき目が細いのが残念)カメラの向こうを見なくちゃいけないんだよね。

その間YouTubeに投稿できなかったせいか、10日目を過ぎたあたりから視聴回数がどんどん減ってくるのに気がついた。多くのYouTuberが「投稿頻度が落ちると視聴回数が激減します」とYouTubeで言っているのは知っていたが、その通りだった。@aoikamomeチャンネル全体で、3週間のうちに10分の1になってしまった。1ヶ月も経つと「もうやめたんだな」と視聴者に思われるらしい。恐ろしいことだなあ。どのくらいの頻度が適当かというと、ジャンルや個人にもよるが、「最低1週間に1本」なのだそうだ(「毎日1本」という、栄養ドリンクのようなことをいう人もかなりいる)。

ひえ~っ!今のところ、わたしにはどう頑張っても月に2本アップできれば上出来。わたしは完ぺき主義者では全然ないけれど、やはり前の動画よりは少しでも質のいいものを出したいのは誰しも思うもの。でもそれで3週間もかかるのは、無駄な工程と、きっとあれも見せたいこれも入れたいという欲のせいなのかもしれない。教室でいつも言っている「見せたいものをぎりぎりまで絞りなさい」って、自分が一番できてないじゃない、と投稿するたびに反省しておりまする。

描き直し

描き直してみた

2/3に載せた写真の元の絵がどうにも気に入らず、気になっていたので描き直してみた。前回のスケッチは10号大だったが、今回は8号にし、そのぶん下をカットしたので、顔の部分などはむしろ少し大きくなって描きやすくなった。

一枚の絵に何本も筆を使うのは油絵では常識(というより、そうしないと描けない)だが、水彩は必ずしもそうではない(水彩でも大作になると話は別になるが)。今回は「一本の筆だけで描く」という課題を自分に課したので、14号のコリンスキー一本で描けるサイズにする必要があった。

「人の顔」には細かい部分が集中しているから、顔を描ける筆かどうかが選択の基準になる。実際には“細かい部分”は顔だけではない。髪の毛も一本一本見れば細かいし、指の一つ一つの関節やそのシワだって、服の生地の織り方だって、描こうとすれば皆同じように細かい。けれど、顔以外は「鑑賞者にとって」案外どうでもいいようなところがあって、いい加減に描いてもあまり気にしない。ところが、顔だけは誰もが強い関心を持って子細に見る、だけでなく“描かれていない”気分までをも深く読み取ろうとする。だから顔が基準になるのである。

でも、わたしは顔もまた「出たとこ勝負」でいいと思っている。微妙な表情にこだわるとつい小さな筆で細かく描きたくなる。するといつの間にか、水彩本来の、水にまかせるような自由さ、気楽さが失われてしまう。造形的な試みも背後に押しやられてしまう。それよりは「目、鼻、口があればいい」的に描くほうを好む。それが“一本の筆だけで”の目的だったけれど、やはり慎重な筆遣いになってしまった(再描き直し?)。