平凡な“Apple 王国”

Apple-海を渡る エスキース

そろそろ晨春会(6月・春日部)展用の制作を始める。展覧会は6月でも図録用写真の締め切りが4月の初めなので、3月中には作品を完成しておかなくてはならない。これはエスキース(アイデアスケッチ)。今年はこんな感じで行こうかな。昨年秋の銀座での出品作にCGで加筆している。

パソコンというのは実に便利。こんなエスキースも、あと少し手を加えれば完成のイメージができてしまう。あとは実際の材料を使って「実現」するだけ。だけど、「手で考える」アイデアはパソコンとはちょっと違う、いや全然違う。そもそも歩いている道が違うのだ。

草むらの向こうを人が右から左へ歩いているのを横から見る。平行な道があれば、横から見る限り、そのどちらを歩いているのか区別がつかない。そんな感じ。歩く人の顔の向きは同じ右から左でも、道はだんだんずれていく。たどり着く先は違うのだ。手描きとCGはそんな風に違う、とわたしはいつも感じながら、(なぜか)CGに慣れようと努力している。それが自分にとっていいのか悪いのかは判らない。「直感」という名の賭けなのだろう。

ここ2,3年の絵はこのスタイル。わたしにしては珍しく(初めて?)固定されたイメージが続いている。これまで数十年、いろんなスタイルを、いろんな材料で制作してきた。今思うのは、どんな絵を描いてもそこに自分がいるならそれでいい、ということ。個性的であろうと、平凡であろうと、それはあくまで外から目線の“気ままな”「評価」。“平凡”といわれようと、自分自身にとっては「平凡」というレッテルなど気にしている暇はないのだ。

「焼き鮎」を描いてみる

「焼き鮎」歯がギザギザしている フェルトペン+鉛筆

誰でも簡単に手に入り、フェルトペンに適した画題はないかなと、スーパーなどを物色したがなかなか適当なものがない。仕方なく「干しウルメイワシ」を買ってきて、3匹ほど皿の上に置いてみた。「イワシかあ」さすがにしけたモチーフだなあと思いつつ、鉛筆を持った途端に思い出した―「冷凍庫に鮎があるはず!」。

暮れにHさんから頂いた大きな鮎が、まだ何匹か残っていたはず。ありました、ありました。ちょっと霜がついたまま、絵の具用の皿の上に置いてみた。―いいじゃん。誰でも“簡単に”というところからはちょっと外れるかもしれないが、クロマグロを捌いて見せるとかに比べれば、“誰でも”の部類には入るだろう。生の鮎でも良かったのだが、あえて「フェルトペン」で描くためには、つるり、ヌルヌルよりはゴリゴリ、カチカチのほうが鉛筆との対比が際立つと思ったからだった。

とりあえず、写真のごとく。確かに鉛筆とフェルトペンとの対比は鮮やか。鮎の存在感が力強い。だが、こういう対比に慣れていないせいか、一抹の違和感がないでもない。ビミョー。画としては、鉛筆が「描きすぎ」。もっとサラッと描くか、(これはBとHで描いているが)2Hくらいで薄く、ち密に描いた方がよかった。残念。でも描いちゃったものはしょうがない。次回頑張ろう。

晩ごはんのおかずはもちろんこれ。心なしか絵の失敗の味が加味されて、ビミョーな味になっていた。※「焼き鮎」の制作プロセスはのちほどYouTube で公開する予定で、現在編集中です。

水彩-人物習作 アップしました

編集に長過ぎるほどの時間を費やして、やっとアップした。凝った編集をしているわけでもないのに、そのほかのことが何一つできないほど時間を遣ってしまった。これではコストパフォーマンスが低すぎて、YouTubeを続けていくことができないと実感した。

身体も疲れるし、電気代、燃料費の高騰している現在では明け方近くまでの作業は、なにより楽しくない。仕事でもないのに、仕事の何倍も辛くなってきてしまった。どこかで脱線してしまったらしい。ちょっと大変だけど、新しいことを覚えるのが楽しい、次は何を作ろうかという自分への期待感がなくちゃ。―考え直す必要がある―

YouTubeを始めるまではYouTubeを見ることもほとんどなかった。他にやることが一杯あって、視聴している時間がなかったからだが、やること、やりたいことは今も以前と変わらないのに、YouTubeを見、その数十倍の時間をかけて作るのだから、それらができなくなるのは当然だ。―みんなはおつまみのポテトチップスを食べて遊びたい―なのに、自分で作ったこともない饅頭なんかを、レシピ見ながらせっせと作って持参、え~っ、饅頭なんか重たすぎるよ―と言われているイメージが浮かんでしまった。

せっかく作ったけど、その饅頭どうするよ?何度も味見して、自分のおなかはもうケッコウ状態だし…って。何度も書いてしまうが、計画性のなさ、計画的な頭脳の使い方を知らないからだな。そういう脳ミソへの改造の仕方を、誰かYouTubeで作ってくれ~。