切り口

「指を組む男」テンペラ(2回目の登場) もう12年も前の作品です。この背景、もう再現できません

―あなたは今日、何をしていますか、またはしましたか?―
 何でもない質問のようですが、時にはされたくない質問ですよね。思わず、“ボーっとしてちゃ悪いんかい!”と投げ返したくなる時もあるんじゃないでしょうか。「今日の予定はもうありません」も、スマートフォンに表示されるたびに「だから、なに?」でした。

なぜだか、わたしはものの「切り口」を見るのが好きなようです。リンゴを齧ると、皮の切り口から中身が見えますね。そういう状況、状態を見るのが好きなんです。何時間も見ていて飽きないのです。でも、それじゃ食事が進まないので、現実にはむしゃむしゃと食べてしまうのですが。

彫刻家が木材を鑿で掬うときの鑿の跡。鑿が木材に入り込む角度、早さ。刃先の鋭さと木材の柔らかさとの絶妙のタイミング、つまり「技」を、頭の中で超スローモーションで想像・再生し、修整・編集し直して、納得して初めて、「この目で見た」という気持になれます。わたしは彫刻家ではないので、わたしのいわば「脳内ビデオ」が正しいかどうかは判りません。彫刻家自身からのサジェスチョンがあれば、それをもとに再修正することになりますが、そこに自分のピントが合わない限り、「見た」という気分にはなれません。
 そうやってすべて、ひとつひとつ自分の感覚の中に落とし込んでいくことが、わたしにとって「ものを視る」という意味のようです。そして、その最も解りやすい場所、それがどうやら「切り口」ということらしいんです。けれど、それはけっしてわたしだけの特別な視点でもなさそうです。時代劇映画などで侍が人を斬る。その切り口を検視すれば、どれほどの使い手か判る、などというかなり専門的な設定でさえ、誰もが疑問を感じずに映画に興じることができます。わたしの視点は、むしろとても常識的なものだということになるでしょう。
 

けれど、通り一遍の“ざっと見”では無理です。映画の中だって、深く「じっと見る」はずです。じっと見ている=何もしていない、じっと考えている=何もしていない、という等式が「あなたは今日、何を・・」の質問から感じられるとき、一つの断絶がその切り口を見せているんだな、と思うのです。

保存された写真を見るとき

06/03(土)にアップロードしました

お元気ですか。寒暖の差が大きい時期、そのうえ雨が降れば線状降水帯だの、嫌な言葉が耳に定着してしまいました。わたしはちょっと疲れ気味、です。例によって、この動画にもかなりの体力、時間を費やしました。水彩の制作時間は1時間半ほどで、描くこと自体は(撮影のための無理な姿勢を別にすれば)楽しいのですが、編集がね。

パソコンの前にずーっと座り続けるのも確かに辛いけれど、その他にあるたくさんの用事をすべて後回しにする、そのことのストレスが夜、深い眠りを妨げるんです。

スイートピーは、教室用のモチーフをわたしの保存写真の中から探している時、その中から見つけたものです。写真って、撮っておくもんですね。“これ絵になるな”、パシャっとやってから描くまでに何年もかかり、そのカフェはもう存在しません。
 写真を探す過程で、過去の作品写真もあちこちからいっぱい出てきます。じっくり見ている時間はないのですが、見るたびにハッとする絵も結構あります。手前味噌で恐縮ですが、苦しみつつも、自分なりに(心の中を)正直にかたちにしていたことに、「自分、がんばっているじゃん」と声をかけてやりたくなります。あなたにもきっとそんな何かがあるんじゃないでしょうか。 

そういう絵を、たぶんもう二度と見る(見せる)こともなさそうなのが残念にも思いますが、わたしが死ねば結局ただのゴミ。その時はこれらの絵と一緒にわたしを燃やしてほしいと望みますが、社会の中で生きていれば、それもまた叶わぬ夢のようです。

「美しさ」について

ビデオ「カフェのスィートピー」のワンカット:(この瞬間が楽しい)

あなたはどんなとき、どんなものを美しいと感じるのでしょうか?美しさを感じる対象は芸術のようなもの以外、たとえば風景のようなものはもちろん、人間の顔、表情あるいは声そのものだったり、モノではなく行為、あるいは数学や化学式まで、あらゆるものが対象になってもなんの不思議もありません。多くの人が醜(しゅう・みにくい)と感じる対象のなかに美を感じとるひとだっています。

人間以外の動物も「美しさ」を感じたりするのでしょうか。鳥の求愛行動や飾り羽などを見ると、そういう感覚はあるのかもしれないという気持ちになりますね。現生人類とネアンデルタール人はある時期共存していたと言われています。ところがその後ネアンデルタール人は絶滅してしまいました。彼らの絶滅と現生人類の継続を分けた原因は何だったのでしょうか。

それは「美」の概念だったのではないか、という仮説があるそうです。「美しさ」は多くの人にとって、生きていくうえで必ずしも不可欠な概念ではないと考えられています。現代では「美に現を抜かし」ていると、むしろ生きていけなくさえなりそうですが、それが人類を絶滅から救ったとはどういうことでしょうか。
 仮説は「きれいな貝殻の発見」から想起されました。。海からはるかに離れ、しかも食料的な意味もほとんどない、小さくてきれいなだけの貝殻が、現生人類の遺跡からはたくさん出土するのに、近くにあるネアンデルタール人のそれからはまったく見つからない。それはなぜか、というのです。
 不要であるのに誰もがある種の「感動」を持つ。誰もがそれを味わいたい。それは確かに「美」の概念と言えそうです。それを持つものと持たないもの、やがてそこに「象徴性」が生まれ、「美」を持つものが権威を勝ち取り、上下関係となり、やがて社会としての構造を作ることにつながったからではないか。まあ、それが仮説のおおよその内容です。

「生きていくうえで不可欠ではない」?本当でしょうか?仮にいまある「美しさ」について、上に述べたことがらの諸々をすべて剝ぎ取ると、どういう世界が見えるでしょうか。そう、いまウクライナ戦争で露わにされた世界、たとえば激戦地といわれているバフムトの現状がまさにそうではないでしょうか。あの風景が「不可欠なもの」を追求した結果なのでしょうか。
 「美しさ」と声に出すとき、心のどこかにある種の反感というか、「世の中、きれいごとだけじゃ済まされない」という大きな声も同時に聞こえてきて、口にするのをちょっと躊躇してしまいます。でもやっぱり、それを求める心を失ったとき、人は戦争しか選択することができなくなってしまう、そんな気がします。美しさを求める心が辛うじて戦争を止めている、そんな危うさを感じます。「生きていくうえで本当に必要なもの」。自分のこころを静かに覗き込む時、それがおぼろげに見えてくるような気がしています。