何もない日

「(水彩での)下塗り効果」のデモ制作

昨日、今日と暑い日が続きます。7月11日火曜日、午後7時現在32℃、だそうです。皆さん大丈夫ですか。その昔、当時すでに型落ちで安売りのクーラーを、しかもスペースに対してパワー不足の、しかもアトリエの上下左右が隙間だらけの、しかも、しかも、しかもの中で、アトリエにつけたのがもうとっくに10年以上前のこと。

以来、たいしたトラブルもなく、「クーラー年金」というものがあったら支払ってやりたいほど、(あっても実際は払えないが)そいつは健気に頑張っております(埃を掃うくらいしか手入れもしないのに)。なので、28℃設定で室温が30℃以下にならなくても、わたしは彼に(彼女かも?)文句を言いません。外より涼しければ何度でも結構でございます。―「でも―」電気代が上がっていると、妻が彼を(わたしをかも?)睨みつけたりするので、「甲斐性なしはわたくしのせいでござります。どうぞ、わたくしめをお縄にかけてくださりませ~」とは口ばかりで、わたしも一緒になって睨みつけている始末。

暑さは苦手ですが嫌いではない、と何度もこのブログに書いた記憶があります。反対に、「寒いのは好きなのに、身体がどうも弱音を吐いてしまう傾向です」を、どう表現したらいいかと考えていました。整理すると「暑いのも寒いのも好きだが、身体には負担です」ってこと?あたりまえじゃんね?そっか、知能のモーターが回っていなかったんですね。なっさけね~(>_<)。

というわけで、今日はこの暑さの中で、ひたすらブログ用の絵を描き、YouTube用の編集作業以外に何もしませんでした。作業が一段落ついて、久しぶりのウオーキングでも行こうとはしたのですが。一日中座りっぱなしのせいか足腰が自分のもののようではなく、それでも壊れたロボットのように、とりあえず歩き始めました。そしたら、いくらも歩かないうちに急に突風が吹き始めたんです。見上げると、入道雲が崩れかかっていてなかでピカピカ光っている。これ幸いとUターンしたら、なんと同市内で竜巻が発生したのだとのニュース。何も書くことのない一日でした(>_<) 。

対比(比べること)

「黄色い壁」 教室でのデモ制作から

おはようございます。今日は2023年7月9日日曜日。ちょっと曇って蒸し暑い日です。ニュース?天気予報を見ると島根、山口など日本海側から九州北部にかけ、大雨になっているようです。自然災害ですからやむを得ない面もありますが、防げる部分は被害が小さく済んで欲しいと思います。

火曜日水彩クラスでのデモ制作です。教室では仕上がりませんでしたので、帰宅後完成まで描いてみました。ここでは色の対比、とくに補色の対比をサブテーマにしています。補色というのは「お互いに引き立て合う2色の関係」を指す語ですが、この場合は黄色の壁と、木や建物の周囲全体の紫との関係がそれにあたります。撮影もしましたので、いずれYouTubeにアップするつもりです。

補色の説明を補足しておくと、考え方としてはいわゆる三原色(赤、青、黄)のうち2つを混ぜた色と、残った一つが補色の関係になる、と覚えておけばだいたい作れるようになります。よく知られているように、青と黄色を混ぜれば緑になり、その緑と赤が補色の関係になる、ということです。現実には絵具または光をつかうことになり、それぞれ全く異なる混合色になります。絵の具の場合でも、たとえば赤のなかにも性質のかなり異なる「赤」が何種類もあり、さらにインクや油絵具、水彩絵の具のような素材の違いもあって、組み合わせ方は無限にあると言っていいでしょう。ただ、基本的な考え方はいま述べた通りです。
 色だけでなく、もちろん白と黒のような明暗の対比もあります。「対比」の概念はさらに、絵画などのビジュアル系だけでなく一般にも広く理解、使用されていて、あらゆる「比較」の場で意識的、無意識的に使われています。「あのひとは背が高い」というとき、それは自分もしくは周囲と比べているわけですし、「あのひとは美しくなった」というときはその人の過去、もしくは同年代の他の人に比べて、という風に比べていることになります。「対比」は「比較」の中心と言っていいかと思います。 

「対比」と対比させられる概念に「調和」というのがあります。美術の世界では「調和」のなかに「対比」が含まれる感じですが、考えようによっては逆のようにも見えますね。 
 「比較する」ことは人間の大きな知恵です。その素晴らしい発展は「定規・物差し」の発明に現れました。それがあらゆる分野での概念の共有を経て、現在のAIにまで繋がっていることを考えるのも面白いですね。

世界

     「ムーン・カプセル2」2010  そういえばカプセルもシェルターも「閉じ」ていますね

おはようございます。いま2023年7月3日(月)の朝です。お元気でしょうか。わたしは元気、と言いたいところですが、「病気ではありません」という方が正直なところです。一昨日あたりからの暑さもあるし、皆さんの多くもそんなところかと推察します。いまビンビン元気な人を見るとちょっとつらい気分になるかもしれません。

日本のメディアにニュースを報道する力がなくなったといわれてもう久しいのですが、最近はニュースと天気予報との区別もできなくなっているようです。気温が30度を越えればニュースになり、大雨が予想されると言えばニュース番組の冒頭で取り上げます。しかも、それを連日ニュースで取り上げることになんの疑問も感じないかのような報道姿勢と視聴の状況に、ある種の絶望感さえ覚えます。
 フランスで18歳の少年を警官が射殺したことを巡って、大きな暴動に発展、広がっていることを日本ではまるで対岸の火事、ニュースではまともに取り上げず、あってもごくわずかのようです。大谷翔平選手がヒットを打ったかどうかは出場の度ごとに、ホームランが出ればスポーツコーナーではなく“堂々の”ニュースです。「ニュースで世界を知ろう」などと、NHKをはじめメディアが子どもたちに呼びかける、その「世界」というのはどんな世界なんでしょうか。

おそらく、「喜ばれること」こそが、少なくともいまの日本では「ニュース」の基準であり、定義なのでしょう。わたしこそ周回遅れの、狭い意味でのニュース、ジャーナリズムのイメージに囚われているのかもしれません。メディアは企業であり、「正義の味方」ではありません。ましてや顧客でもない「人々の味方」などではありません。ジャーナリズムはその企業の宣伝の一部分であり、スポンサーと顧客のご機嫌第一と考えれば、すべてのつじつまは合うのです。それが「世界」の意味なのでしょう。
 「少年よ、有名人になれ、有名選手になれ。金持ちになることが勝者になることだ。それが世界というものだ。」そういうメッセージなのではないでしょうか。

お金がすべて、という世界観を、少なくとも“世界の”過半数は(口に出すかどうかはともかく)支持しているでしょう。そして、その目的は自分だけの世界を「繭作ること」。芸術の分野で「自分だけの世界を創る」という言葉の意味とは方向性が正反対です。プーチン大統領がウクライナ戦争を始めた動機(と言われていること)ととても近いと思います。SNSなど、ソーシャルメディアが情報空間を格段に広げたのは間違いありませんが、まさにそのことによって、世界は一人一人の繭の中に閉じていくんだなあと、いまわたしは強く感じています。

 ※いつも長くて済みません。嫌なことを、嫌な気分にならずに済むようにと、つい長くなってしまうのです。人の気に入ることだけ書きたくなる気持ちも解らないではありません。