ま、いっか Ma, ikka

このくらいで「ま、いっか」

わたしの苦手な言葉、「ま、いっか」。「ま、いっか」とはご存知の通り、「とりあえず、OK」のこと。

それは自分に対しては「甘やかしの言葉」。他人に対しては?言いようによっては「しょうがねえやつだなー」って意味にもなるから注意が要る。基本的に相手を認める言葉だから、なるべくは使いたい言葉だが、時にはつい要求が先に出てしまう。「もちょっと、やれるんじゃない?」とか。

決して相手を馬鹿にしているわけではない。むしろその潜在能力を高く買っているからこそ要求もしてしまうのだが、実は、それは言ってはいけない言葉なのだ。たとえそういう意味だと相手が分かってくれても、である。とりあえず、「ま、いっか」。それが大事。

わたしは毎日自分を甘やかしている。毎日「ま、いっか」と自分に言っている。本当はわたしの大得意な言葉なんだ。それが他人に対しても同じように言えないということは、自分に余裕がないからだということも分かっている。でも、それも「ま、いっか」。すぐそれを口にできるよう、毎晩唱えてから寝ることにしようっと。マイッカ教の始祖になる?

冷めたコーヒー

スケッチ

前にも書いたかもしれないが、ライフルでの狙撃の世界記録(忌まわしい記録ではあるが)は3800m。現在進行中のウクライナ戦争で、ウクライナのスナイパーがウクライナ製のライフルを使い、ロシア兵を狙撃したとウクライナ保安庁(SBU)が主張し、すでに世界中に知られている。

軍や軍事関係者、武器製造メーカーなどにとっては実戦での記録だから、オリンピックでの100m走の世界記録などよりはるかに有用な記録であるに違いない。わたしが想像するのは、撃たれたロシア兵がその時なにを考えていたんだろう、ということ。戦争だから、いつどこで撃たれるか分からないという覚悟を家族の中には置いてくることができたにしても、彼自身にとって覚悟などという言葉には何の意味もないほど遠くから、現実の死はやってきたに違いない。

同じくウクライナ戦争での話題で恐縮だが、ウクライナに供与されたF16戦闘機が墜落した。味方の誤射によるものだと公式発表があった。このパイロットは非常に優秀かつ人望の篤い人物だったらしく、ゼレンスキー大統領がこれに激怒し、即日空軍司令官が解任されたという。

数日前、わたしの叔父が故郷で病死した。自分に何が起こったか知る由もないロシア兵と、少なくとも必ずしも生還できないかも知れないと思いつつ出撃したはずのパイロットと、家族に看取られつつ亡くなった叔父との、それぞれの死の意味が、わたしには解らない。死には意味などなく、単に「死」なんだろうな、と今この瞬間は考えている。
 家族の中で、いちばん離れて暮らしているのに、なぜか私だけが祖父母、両親の死にたった一人だけ立ち会った。不思議な死の縁。

時々自信をつける

今日も1枚描けた

皆さんこんにちは。このクソ暑い夏も、台風のニュースを聞く頃になれば、そろそろ終わりだな、と心なしか口角が上がってくる。

年とともに、誰しもいろんなことに自信を失ってくる。体力、記憶力、想像力などなど。「老人力」なんてベストセラー?の本が出たりするけど、まあ、要するに「がっかりするのもほどほどにね」というほどのものだろう。高齢になっても自信満々というのは、バカかロクでもない奴と相場は決まっている。

けれど、時々自信を回復したり、自信をつけたりするのは必要だ。落ち込み過ぎて自殺などしても、誰も喜ばぬ(と、思っておこう)。自信も、不信も、過信も一言で言えば、自分自身の「思いこみ」に近い。隣を歩いている人よりちょっと早かったりすると、「まだ脚は衰えていない」なんて喜んで自信を回復する。その人が、単に他の人より遅いだけでも、勝手に自信が回復してしまう。そんな便利な頭が必要だ。

あらゆる意味で自信が全くない人、というのはこの世に存在しないと思うけれど、自覚された自信は、時に爆発的な力を発揮することがあるのは、スポーツなどでは特によく言われること。目標がどこにあるかで自信の持ち方も変わるのも当然だ。「必ず優勝できる自信がない」などというのは、おそらく他人にはに想像もできないプレッシャーが言わせる言葉だと想像するが、不幸な方向性をもったあり方のような気がする。「このぶんなら、明日も何とかやっていけそうだ」くらいの自信を、時どきはつけようぜ。もっとも、これが自信でなく「希望」だと、ちょっと悲しくなるが。